スワヒリことわざ300 本文へジャンプ
 覚えておけば瞬時に意思疎通ができる(場合もある)スワヒリことわざ。日本のことわざのように、生きるうえでの知恵もしっかり授けてくれます。ことわざ約300掲載予定です。

 このことわざ集は以下の文献によるものです。現地ではさまざまなスワヒリことわざ解説を見つけることができます。  こちらもお見かけの際は是非ご購入、ご参考にしてみてください。
・Maryam Abdulhamid na Abdalla Baruwa, “Methali za Kiswahili : Maana na Matumizi 1”, Mikuki na Nyota Publishers, 2002.
・Maryam Abdulhamid na Abdalla Baruwa, “Methali za Kiswahili : Maana na Matumizi 2”, Mikuki na Nyota Publishers, 2006.
     


   

Adhabu ya ya kaburi aijuaye ni maiti. 墓の罪を知っている者は遺体

 スワヒリの人々の中では、罪を犯した人の墓に裁きの天使が来ると信じている場合があります。その罪に対する罰はその人が受けるもので、それ以外にその罪と罰を知っている人はいません。転じてこのことわざは、辛苦を受けている本人を除いて、人の苦労など知る人はいないということを表しています。
 同義のことわざに「困窮の苦しみを知っているのは貧しいその人(貧者でなければわかりえない)」や「空腹の苦しみがよくわかるのは腹が空いているその人自身(空腹でない人にはわからない)」といったものがあります。
  
Ahadi ni deni 約束は借財

 物を借りたら返す、約束をしたなら実行する。それがこのことわざの教えです。それは約束は借金のようなものだからです。

Aibu ya maiti aijua mwosha 

 
少々お待ちください。

Aisifuye mvua, imemnyea 

 
少々お待ちください。

Ajaye kisimani mbele hunywa maji maenge 先に井戸に来る者は、きれいな水にありつける 

 他の人より先に、不純物の沈んだ、かきまぜられていない水辺へ行けば、きれいな水を得ることができます。このことわざは、物事によい状態で取り組むには、はじめにすること、他の人に先行されるまで時間を費やすなということを説いています。物事を先行する人はより多くの利益を得るということなのです。

Ajengaye siye alalaye 建てた人が住む人(わけ)ではない 

 家を建てた人が必ずしもそこに住むというわけではない、ということです。建ててもすぐに亡くなったり、子供たちに相続された場合、彼らのほうが長く住み続けるということもあり得ます。
 このことわざは、良いことを行うときに、それを行った当人が必ず福利を得ることのみを考えるなと言っているのです。
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Akiba haiozi 蓄えは腐らない

 蓄えとは、必要がある時のために別によけて置いておくものです。毎日の入り用のほかに、蓄えが必要な時があります。このことわざは蓄えを持つことを説いていますが、それは財産だけでなく、すべての益について言えると説きます。友人、知人に善い行いをする。それは蓄えをしたことで、いつの日にかその良い結果を、この世でなくともあの世で見るだろうということです。

Akili nyingi huondoa maarifa 博学は知識を排除する

 このことわざは、たいして知恵がないのに、他の人を見下す人に対する警告として使われたりします。人は賢いふりをするとき、他人の助言には耳もかさなくなる傾向にあり、しまいには損失を被ることをあらわしています。 

Akipenda, chongo huita kengeza 

 
少々お待ちください。

Akufukuzaye hakwambii toka きみを追い払う人は、きみに「あっちへ行け」とは言わない 

 ののしられるか追い払われるかする前に、人々のふるまいから物事を察しなさいと説いています。追加の解説を少々お待ちください。


Akumulikaye mchana usiku atakuchoma 昼あなたを照らす者は、夜あなたを焦がす

 日が照っている間というのは、物事を白日のもとに見ることだできるということです。夜間は物事をよく見ることが困難な闇の時です。ある人が昼間にあなたをよく見ることができず、明かりを照らさなければならないとなると、その人の目には何か欠陥があることが明らかなのです。
 このことわざは、わたしたちに悪さを行ったり敵意を抱いている人々に注意をすることを説いています。昼間に明かりで照らさなければならないとなると、夜にあなたを焦がさないという保証があるでしょうか、という意味です。

Ala moja haikai panga mbili ひとさやにニ刀は納まらない 

 刀がふたつあると、どちらも鋭いので通常は一つのさやに二刀は納まらないものです。それでも差すのなら、さやは破れてしまいます。
 このことわざは、長がふたり、ボスがふたり、力のあるものがふたり、優秀なものがふたりいるところで万が一折り合わなかったら、そこに平和はないし、ことが起こることは必至であると示唆しています。

Alisifuye jua, limemwangaza 

 
少々お待ちください。

Aliye juu mngojee chini 上の者は下で待て 

 すべての人の住まいは地上にあり、その中でも上に行く時は一時で、いつかは地に降ります。
 このことわざは、地位や財産などによって上にいるとき、下にいる者を嘲り、高慢にならないように説いています。いつかは地に降り、下にいた者がのぼることを心せよということです。そればかりでなく、地位や財産の下位層も、上層階級の前で卑屈になることもない、それは逆転することもあるのだから、と述べています。

Aliye kando haangukiwi na mti 

 
少々お待ちください。

Aliyekupa wewe kiti, ndiye aliyenipa mimi 

 
少々お待ちください。

Aliyetota, hajui kutota 

 
少々お待ちください。

Amani haiji ila kwa ncha ya upanga 刃の先を除いては平和は来ない

 誤解を招きそうですが、要は絶対的な平和を望むなら、いつでも対処できる態勢でいなさいということです。そうすればあなたと争うことを望んでいる者も、戦を続ける前にそれを再考するだろうということです。搾取などには抵抗する気概でいなさいということを説いています。

Apasukiwaye nguo nifundi wa kukunja 破れた服の人は、たたみ方の業師となる

 まともな服を着ている人は、破れを気にしながら服を上手にたたむはありません。しかし破れた服の人は、着ている時にもみっともなくないように、服を上手にたたむ者となります。
 何らかの問題を抱えている人は、事足るように物事を乗り越える業師となる、ということを教えています。例えば、日々の生活にも事欠くほどお金がない時や、干ばつその他の際ほど、人々は節制を知るのです。

Ashibaye hamjui mwenye njaa 満ち足りている者は空腹の者を眼中としない 
 
満たされている人は、腹を空かせている人の困難が、余裕のある人はない人の苦労がわからない。
 つまり、満たされている人々は腹を空かせている人々を忘れがちで、だからこそ尊大や横暴は避けるべきであることを説いています。同時に、お腹をすかせている人、余裕のない人は、満ち足りている人に頼りきりになるのではなく、自活していくことも説いています。

Asiyejua kufa (n)atizame kaburi 死を知らぬ者は墓を見よ

 Kaburi(墓)とは死者を埋葬するための穴です。死を知らないか死なないとでも思っているのなら、墓を見て「ここで眠っている人も自分も同じであるのではないか」と自問しなさいということです。
 転じて、他人の行いで学びなさいということです。
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Asiyefunzwa na mamaye hufunzwa na ulimwengu. 母親に教わらない者は、世間に教わる

 このことわざは、両親と彼らが属する社会に、子供をしつけることは義務であるということを、思い起こさせるときに使われます。子供に教えないままでいるなら、当然そこでは愛されず、なんらかのしっぺ返しを受けることになります。要するに社会性を欠けば、そのままではいられません。またこのことわざは、他の人の意見や忠告を拒絶して、社会的に非難をこうむる人に対しても使われます
 

Asiyekubali kushindwa si mshindani. 負けを認めない者は、競技者ではない

 人が競争するとき、どちらかが勝者で一方が敗者になるというのは世の習わしです。今日はだれかが勝ち、明日は別の人が勝つ。すべての人が勝つということはできない場合に、知恵のある者というのは、負けを認める人なのです。それこそが道理のある人だということです。
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Asiyekucha ng’ombe, ng’ombe ni yeye 牛を恐れない者、それは彼が牛だから

 牛はけもので、他の獣と同じように「分別」がありません。スワヒリの人々はこのことわざを、「分別がない人(知恵のない人)」の意味の例として使います。
 もし愚か者や礼儀知らずにかかわらないように気をつけなければ、彼らのようになってしまうということです。愚か者、あるいは礼儀知らずを真似てはいけない、そうしないと自分自身がそのようになってしまうということを教えることわざです。

Asiyesikia la mkuu, hufikwa na makuu 

 
少々お待ちください。

Asiyesikia la mkuu huvunjika guu. 長(おさ)に従わずば、脚が折れる

 概して年長者は若者よりも分別と知恵があります。年長者の言うことには耳を傾けることです。そうしない時彼らは怒ります(つまり「脚が折れる」)。このことわざはスワヒリの世界において、年少者たちに年長者の進言をに耳を傾けることを促す時に用いられます。また年長者の言うことを聞かずに損失を被る者に対するときにも使われます。

   
Baada ya dhiki faraji (faraja) 苦労のあとには楽(楽あれば苦あり)

 このことわざは、労苦、困難、面倒、騒動などの渦中にいる人に、人生〔苦のあとは楽〕というような状態になると考えて、希望を捨てずにいなさいと、はげますのに使われます。

Bahari haishi zinge 変化に生きる

 海は一定の状態にはとどまりません。ある時は凪である時はしけです。つまりここでは海に例えられる「世の中」は、変化と荒れと混乱で成っているということです。このことわざは、起きうるすべてのことに対峙する心構えでいなさいということを教えています。変化が起こってもただぼう然とするのではなく、世の中とはそもそもそういうものだから向き合いなさいということです。

Bandu bandu humaliza gogo 割り続ければ丸太は片付く

 丸太を割っていくと、しまいには細かくし終わります。このことわざは、すべての物事はコツコツ行うことによってしまいには片付くということを教えています。いっぺんに、あるいはいちどきに物事を片づける必要はないし、土台無理なのです。

Bao nene si chuma chembamba 太い木材は痩せた鉄ではない 

 木材は、それが太いものであっても、それが細くとも鉄の前ではもろいものです。
 このことわざは、力や威厳があるように見えるけれど実は臆病な、そして真の巨人ではない太った木材は、痩せて内気に見える勇者(痩せた鉄)とは異なると述べています。転じて、体格や服装や地位などで人を判断するな、人間性であると説いています。

   

Cha kuvunda hakina ubani 腐ったものに香(こう)はない

 香は、なにかの腐った臭いを鼻に届かないように抑えるために使われます。このことわざの意味は:ものがひどくにおうなら、どんな種類の香をたいたとしても、その(もとの)においは発する、ということです。
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Cha kuvunja hakina rubani 壊れる物に操縦士はいない

 どんな船でも、岩礁に乗り上げたりして壊れる兆候が見えてしまったなら、どんなに操縦士が有能であってももうどうしようもありません。
 このことわざは、ものごとを行うための良い案(助言)を見ても、それを採用しない(あるいは聞き入れない)人に、それがものごとの崩壊する兆候なんですよ、ということを知らしめるために使われます。

Chambo chema ni baraka ya mvuvi 良い撒き餌は漁師の恵み

 漁師はより多くの魚を捕えるために良い撒き餌を使います。このことわざは、人は良い結果を得るためにより良い行いをしなければならないことを教えるときに使われます。
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Cha mlevi huliwa na mgema 酔っぱらいのくいぶちはヤシ酒づくりに喰われる

 酔っぱらいが酒を手に入れたいのなら、ヤシ酒づくりのくいぶちの金(ヤシ酒の代金)を支払うのは当然です。
 このことわざは、各人欲する物に対して、それなりの代償を支払わなければならない、たとえ望まないものであっても支払いをしなければならないということを示すのに使われます。

Chema chajiuza, kibovu chajitembeza 良品はひとりでに売れ、粗悪品は自身を売り歩く

 もし物が良ければ人は勧められなくともそれを購入します。けれど粗悪品の場合、大げさな宣伝などによって欠点を隠さなければならない場合があります。このことわざは、良い物や人は自らを宣伝して回ったりする必要がなく、そのままで好まれるということをあわらしています。
 逆にいえば、おのれを賛美するのが好きな人や、長所だけ表に出るものに対して注意をしなさいと言っています。

Chendacho ugangani hakirudi 呪術に渡ったものは戻らない

 伝統医のもとに行った場合は、相談料や治療費を支払わなければなりませんし、処方薬を買うにもお金がかかります。そして薬が余ったり、病人が治らなかったりしても返品・返金はされません。
 このことわざは普通、夫たちに、妻(単数複数とも)に渡った贈り物や婚資を返せ
というなということを説いています。また詐欺師や盗人に物をあげた人が、それを取り返そうとするなということも教えています。

Chururu si ndo ndo ndo したたる水は1滴ばかりの水ではない

 "Chururu"とはしたたる状態の水のことで、"ndo ndo ndo"とはぽたぽた垂れる水のことを言います。したたる水のほうがぽたりぽたりと垂れる水より早く容器を満たします。
 このことわざは、それが少量であっても毎日得るものは、たとえ多くてもたまに得るものよりもいいということを表すのに使われます。例えば毎日の仕事、あるいは継続して得られる収入は、日雇い的なものよりもいいということです。

   

Dalili ya mvua ni mawingu 雨の兆しは雲

 一般的に、雨が降りそうなときには雲がおおいます。それが雨の降る兆しです。
 あらゆる事象にはその兆候があるというのがこのことわざの意味です。物事が変化していくときにはまず兆しが現れるということです。
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Damu ni nzito kuliko maji 血は水より重い

 血縁関係にある者同士の関係は、他の関係、例えば婚姻、友人、商売仲間やその他の関係にある者同士よりも、辛酸をなめやすいということを、このことわざは言っています。

Dau la mnyonge halendi joshi 財のない人のダウ船は速くは進まない

 余裕(財産)がない人は、高速で進むことのできるダウ船を作る費用を捻出することができません。このことわざは、財のない人、貧しい人、小市民は、力のある人、金持ち、権力者の行うようにはできないということをあらわす時に使われます。

Dawa ya moto ni moto 火に抗するものは火

 田畑に火が起こり、水をもって延焼を抑えられなかった場合、対処法は、すでに起こった火に対峙させるように、別の側に火をつけることです。両側の火が合わさったところで火は消えます。
 このことわざは、ろうぜき者を退治するには彼のようなろうぜき者を、粗野な者には粗野な者を、勇者には勇者を、金持ちには金持ちを、高学歴者には高学歴者を対峙させよと言っています。

Dudu liumalo silipe kidole 刺す虫に指は与えない

 刺す(咬む)種類の虫だとわかっているなら、指を差し出さないように。差し出したら咬まれるのがオチです。
 ある人が泥棒だとわかっているのなら、そのようなものに預け物をするな、押し入りとわかっているのなら家に入れるな、賄賂をむさぼる者なら権限を与えるなということです。

   

Enda na uchao, sende na uchwao 日のあるうちに行き、沈んでからは行くな

 日があるときには明るさがあり、物事が白日のもとにさらされています。日が沈んでからは闇が訪れ、物事がはっきりとは見えません。つまり、物事を成し遂げようとするなら、日のもとにさらされて明るい状態の時のように、よくわかった上で行いなさい、夕闇で暗い状態の時のように、なにか疑問や疑いが生じるなら行うな、ということを教えています。
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Endaye shamba mjini kwema 住みか安泰で田畑に出掛けよ

 スワヒリの人々(東アフリカの海岸地方居住者)は、自分たちが居住する場所から離れたところに田畑を持つのが普通です。このため田畑に赴く際は、ちょっとした旅程になります。向かう先の田畑が遠いため、留守の間なにも問題がない時でないと、出向かないのです。
 このことわざは、何か行動を起こそうと思ったなら、起こりうることすべてに対処できる状態を確固とするように準備することを教えています。

   

Fimbo ya mbali haiuwi nyoka 遠くの棒はへびを殺さない 

 このことわざは、役に立つものはそばにある物で、遠くにある物ではないということを言っています。
 蛇が出た時、それを追う棒は近くにあって、すぐに手に取れるものでなくてはなりません。棒を取りに行っている間に蛇はいなくなるので、取るのに時間のかかる物は役には立たないということです。

Fungato haiumizi(haivunji) mkono しっかりした梱包は手を傷めない

 きちんと梱包された荷物は、揺れたりずれ落ちたりすることがなく、きちんと運ばれ、運ぶ人をも疲れさせません。ずり落ちるのを防ぐのに手を傷めるような、ちゃんと梱包されていない荷とは対照的です。
 このことわざは転じて、よく荷造りされたものを運ぶように、他の人を助けることを惜しまないようにと言っています。助け合い物事を円滑に行うか、それとも事物を壊してしまうかが、結果の分かれ道となります。

Funzo la mjinga ni tabu 馬鹿に付ける薬はない

 「馬鹿(mjinga)」とは判断力がなく、なにが得か害かもわからない人のことを指します。そのような人とは結果の予測に関して、合意をするのが難しいのです。
 このことわざは、悪い結果が出るまで納得しない人や、こうむる結果をわからない人に警告するという時間の無駄を費やすことに対して注意しなさいと促しています。

   

Geza geza ndiyo mji 試み続ければ栄え

この場合の‘Geza’ の意味は「試みる」です。積み建てることを試み続ければ街がたちます。

 このことわざは「すべては試すことから」と説いています。試みれば達成するでしょう。すべては試みたひとりの人によってはじめられたのですから、物事を始めることに臆さないようにと言っています。

Gimba lisilo akili ni gogo うどの大木

‘Gimba’ とは巨体の持ち主です。知恵のない巨人はさながら大木です。ずうたいばかり大きく役に立ちません。

 このことわざは、いかつく威圧的だけれど知恵のない巨体の持ち主の例として使われます。またずうたいばかり大きくて知恵のない者には気をつけるように教えています。.

   

Haba na haba hujaza kibaba ちょっとちょっとはキババ(約半リットル)を満たす


 穀物類の少量ずつ(粒々)を運ぶとき、キババ(約半リットル)にひとつひとつを入れていけば、時がたつとキババはいっぱいになります。

 このことわざは、小さな事柄をおろそかにすることのないよう、人々をはげますのに使われます。そのような少しこそが、大きなものとなるのです。例えば、人々が大金を募る必要があるとすれば、かならずしもひとりひとりが大金を投じる必要はありません。小金を投じることはできるので、時がたてば、−たとえとても長い時間がかかったとしても−目標額を達成することができます。これが、ちょっとちょっとはキババを満たすという意味です。.

Hakuna refu lisilo na ncha 端のない長さはない

 終わりのない長さはありません。事象それぞれには終わりがあります。

 このことわざは、困難あるいは重圧に抑圧されている人をはげますのに使われます。すべての事柄に終わりはあり、永遠に続くわけではないので、その人が抱えている重圧も、ある日終わりを告げるのです。

Hamadi (ni iliyo) kibindoni大事(だいじ)は腰巻にあるもの 
解説少々お待ちください。.

Haraka haraka haina baraka 急ごしらえには福がない

 急ごしらえで行われるものごとは、普通うまくいきません。欲を掻くため計画性がないのです。人はていねいさ、慎重さをもってものごとにあたるのが良く、そうすればものごとは伸張するのです。
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Hasira hasara 怒りは損失(短気は損気)

 怒りは良いことではありません。多くの場合損失のみをもたらします。このことわざは人々に、憤怒をかかえないように警告するのに使われます。

Hasira za mkizi tijara ya mvuvi 魚の怒りは漁師の収穫(短気は損気)

 ムキズィはある種類の魚です。

 その魚は釣り糸で釣られるとき、怒っているように飛び跳ねる習癖があります。多くの場合、釣り糸から落ちたいくつかは、漁師の小船かダウ船のなかに落ちるので、魚の怒りは漁師の利益になるのです。

 このことわざは、怒りの損失を説いています。つまり、人は怒ると、自分で自分を害し、怒りの原因となった人に利益を与えてしまうのです。このため、やたらに怒ることはつつしむことです。.

   


少々お待ちください。
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少々お待ちください。
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Kazi mbi si mchezo mwema ヘタな仕事は良い遊びでない


 良い遊びよりも、ヘタな仕事のほうがマシです。人は遊びにいかなる喜びがあったとしても、仕事がないよりは底辺の仕事でもあったほうが良いのです。

 このことわざは、人は労働をするものであって、怠惰であってはいけないことを説くのに使われます。.

Kenda karibu na kumi 九は十のそば


 kendaとは九(tisa)です。つまり九は十の近くにあります。

 このことわざは人に、困難と疑念を耐え、後戻りしないようはげますのに使われます。困難に耐え、希望を失わなければ、まさに困難の終わりは近いのです。耐えて困難の終わりにまでたどり着というのが、「九は十のそば」の意味です。.


Kichwa cha kuku hakistahamili kilemba にわとりの頭は頭布に耐えない


 にわとりの頭は小さく、頭に巻く布は大きい。にわとりの頭に頭巾を巻くと、当然のことながら、重すぎて耐えられません。

 このことわざは、わずかな地位や役割を得ると、自分を買いかぶり、他の人をなんとも思わなくなる狭小の人を指して言います。その人にとっては、自分だけが偉大であり、他の人はチリのようなものなので、このような人の頭はにわとりの頭のようで、大きな布を頭に巻くには耐えないということです。


Kidole kimoja hakivunji chawa 指1本ではしらみはつぶせない

 スワヒリの人々は、しらみをつぶすとき、親指の爪の上にしらみをのせて、もう1本の親指の爪でそれをつぶします。このため、2本の指が協力しあわなければ、しらみをつぶすことができません。

 このことわざは、ものごとを実行するにおいては、協力しあいなさいという意味合いで使われます。人はひとりでは、意味のあることをなし得ないのです。

Kikulacho ki nguoni mwako かみつき虫はあなたの服の中に


 容易にあなたを咬むことができる虫とは、あなたに最も近い、服のなかにいる虫です。服のなかにいない虫は、簡単にあなたを咬むことなどできません。

 このことわざは、あなたを容易に害することができる者とは、あなたに関係する人か、あなたのそばにいる人、−たとえば兄弟、友人、あるいは親戚などだと言っています。なぜなら、あなたに関する多くの秘密を知っているからです。あなたの秘密を知らない関係のない人や遠くにいる人は普通、あなたを害することはできないのです。.

Kinolewacho hupata (hukata) 研がれた道具は切れる


 研がれたすべての道具(くわやナタやナイフなど)は、どんなに長期間たっても、するどく切れます。

 このことわざは、人は冗談を言われると、たとえそれが嘘であっても、そしてはじめは聞き入れなくとも、しまいにはそれを聞き入れ、信じ込んでしまうということをあらわすのに使われます。.

Kisichofanana na mwenyewe ni cha kuiba 似ていないものは盗んだもの

 このことわざは、両親のどちらかに、ふるまいや姿が似た子供にたいしてよく使われます。つまり、そのようでなかったら、両親のあいだの子供ではないということになります。たぶん、姦淫してできた子であろうということになってしまうのです。

Kitanda usichokilalia hukijui kunguni wake 寝ていない寝床のナンキン虫など知らない

 このことわざは、人は直面していない問題を知ることが難しいということをあらわすのに使われます。例えば、牢獄に入れられていなければ、そこの厳しさははかりがたいものだ、ということです。
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Kosa moja haliachishi mke ひとつのあやまちは、妻を捨てさせない

 人は、たったひとつのあやまちで、妻を追い出したりはしません。同様に、たったひとつの、あるいははじめてのあやまちで、同僚と争いをおこしたりはしません。故意でない場合だってあるからです。

 このことわざは、人は忍耐と我慢強さを持ち、小さなあやまちで怒ったりカッカしたりしないこと、ということを教えるときに使われます。

Kupotea njia ndiko kujua njia 道に迷うことこそが、道を知ること

 このことわざは人に、ものごとに挑戦することを恐れるなと教えています。今日失敗しても、明日はうまくいくこともあります。人が旅にでたり、ある場所へ行き、目的地へ向かう道を間違えるとします。すると人は、他の道を探します。求める道を得るまで、挑戦するのです。だから、ものごとに挑むことを恐れるな、「道に迷うことこそが、道を知ること」なのです。.

Kuuliza si ujinga 尋ねることは愚かではない(聞くは一時〔いっとき〕の恥、聞かぬは末代の恥)

 このことわざは、自分が知らないことは尋ねよ、ということをうながしています。黙っていたり、知っているふりをするよりは、それを理解するため、知らないことは尋ねたほうがよいのです。そのような人は無知ではなく、むしろ賢いのであって、愚か者とは、尋ねることをしない人のほうなのです。
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Kuwashia taa pofu ni kuharibu mafuta 盲にたく灯りは油の消費

 盲目の人は見えません。それなので、その人にとっては、闇と光は同じです。灯りをともす必要はありません。灯りをともせば、単に油の消費になるだけなのです。(※スワヒリ語ことわざとその解説のため、語弊がありますことをおわびいたします)

 このことわざは、人が望まないこと、あるいは喜ばないことをするのは、無駄なことだということを示すか、あるいは無知な人に、それは決して得策でないことを伝えるのに使われます。.

   

Lililopita hupishwa 過ぎ去ったことはかなたに

 過ぎ去ってしまったこと、あるいは、済んでしまったことを思い出す必要はありません。それは自分自信を憎しみのなかに投入するか、心悩ますだけなので、忘れてしまうのが一番いいのです。

 このことわざは、過ぎた悪いことを思い出しながら過ごすなというときに使われます。

   

Maji yakimwagika hayazoleki 覆水盆に返らず

 水をこぼしてしまったなら、それを集めることは難しいのです。集めたとしても、はじめにあったようなきれいな水を得ることはできません。このことわざは、壊れた事柄について使われます。壊れてしまったものは返らず、たとえ返ったとしても、昔のようにはならないということです。.

Majuto ni mjukuu 後悔は孫(≒後悔先に立たず)

 人は、物事を行う前には後悔はしません。行われてしまった物事に関して、後悔そのものはもう役に立たないということを悟るのです。

 このことわざは、物事を行う前に考えることを教えています。考えなしでやたらめたらに物事を行うべきではないということを説いています。

Mchagua jembe si mkulima くわを選ぶものは農民にあらず(≒弘法筆をえらばず)

 自分の仕事を巧みに行う農民は、耕すためのくわを選びません。どんなくわでも使いこなすのです。 このことわざは、物事を実行していく人は、言い訳や口実を待ったり探したりしないということを言っています。ある人が、物事を実行しない口実を探しているのを見たなら、その人は物事を成し遂げる人ではない、口先ばかりの人だということなのです。

Meno ya mbwa hayaumani 犬の歯は咬まない


 口を閉じていれば、犬の歯は、人間の歯が咬みつくほどには、咬まないように創造されているということです。

 このことわざは、兄弟、親戚、あるいは同胞間でけんかをしても、完全にいがみ合わないことを示すときに使われます。彼らは再びもとの仲になれるのです。なので、そばにいる関係のない人は、彼らのけんかに介入しないことです。


Moja shika si kumi nenda rudi 得たひとつは後払いの10ではない

 すでにある1つを得たほうが、後から来るだろう10を待つか願うよりもいいということです。

 まだ得ていないものを請うよりも、すでに得たものにしっかり従事するほうがよいということを表しています。.

Moto hauzai moto 火は火を生まない

 火はつければ燃えますが、消してしまえば燃え続けはしません。灰だけになります。

 このことわざは、親(父あるいは母)がなんらかの賞賛を得たとしても、子はその賞賛とともにあるわけではないということを示しています。その反対の評価を受けることもあるのです。

 次のように続けることもあります。moto hauzai moto ; huzaa majivu‐火は火を生まず、灰を生む‐(mwana wa nyoka ni nyoka‐へびの子はへび‐と比較)。

Mpanda ngazi hushuka 昇った者は降りる

 はしご(あるいは階段)を登るどんな人でも、上にとどまったままではいられません。しまいには下におりなければなりません。

 このことわざは、なにがしかの地位や恩恵を受けた人、とくに高慢になり始めた人に、やたら頭でっかちになるなということをわからせるのに使われます。はじめは下にいたように、今上でも、はじめ同様ある日、下に落ちるということはあり得ることなのです。

Mpiga ngumi ukuta huumiza mkonowe (mkono wake) 壁を殴る者は自分の手を傷める

 壁は手よりも硬く、同時に感覚がありません。なので壁をげんこつで殴っても、壁はいたまず、痛むのは手です。

 このことわざは、勝ち目のない者(あなたより能力あるいは力がある者)と競うなということを、人に悟らせるのに使われます。そんなことをすれば、自分を痛めつけるか傷つけるかだけなのです。(「ヤシの実は石と競わない」を参照)。.

Msafiri ni aliye pwani 旅人とは海岸にいた者

 昔は自動車も飛行機も汽車もなく、人々は徒歩(陸)で、あるいはダウ船・帆船(海)で旅をしました。なので旅人はみな、交通手段に間に合うために(確保するために)、海岸(港)にいなければなりませんでした。遅れたなら、おいていかれただけなのです。

 このことわざは、ものごとを行うことを、しまいまで引き延ばすべきではないと教えています。早め早めに行おうということです。.

Msema pweke hakosi
少々お待ちください。
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Mstahamilivu hula mbivu 忍耐強い人は熟したものを食う

 このことわざは、「忍耐は福を引き寄せる」と同じです。
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Mti huchongewa ni(na) tundaze 木はその果実によって削られる

 実のならない木々であれば、それとかかわろうとする人はいません。しかし実があれば、石を使って落とすか、あるいはこん棒を投げて実を集めるかする人々(とくに子供たち)を見ることができます。木を削る(傷める)ものは、まさにその木の果実なのです。

 このことわざは、子供たちによって非難される親をあらわすのに使われます。しつけのない子供、あるいはやんちゃすぎる子供であれば、人々は、両親を非難するかののしるかするのです。.

Mtoto umleavyo ndivyo akuavyo そうやって育てた子はそうやって育つ

 子供は育てられるものです。よく育てられたなら、良い育ちを醸します。悪く育てられたなら、しつけのなさを醸し出します。

 このことわざは、子供がしつけのよさを身につけるよう、親は子供をよく育てなさいと促すのに使われます。また、礼儀のない子供や人に対しても使われます。つまり、「まさにそう育てられてしまったのだから、礼儀知らずである」という意味なのです。.

Mtumai cha ndugu hufa yu (hali) maskini 依存するものは貧困のうちに死ぬ

 自分自身で稼ぎに行かないで、身内から得る、あるいは相続することだけを期待している人は、貧しいうちに死ぬでしょう。

 人は自立するべきで、兄弟や他人をあてにするなということを教えています。

Mtu ni watu 人とは人々(人は一人では生きられない)

 他の人なしでひとりっきりで生きることができる、あるいは他の人の助けを必要とせず、すべてに足る人はひとりもいません。

 このことわざは、他人と関係があるのに協力せず、自分自身だけでこと足りていると考える人は、人のうちには数えられないということを教えています。(“mtu pweke ni uvundo” と “kidole kimoja hakivunji chawa”を参照)

Mtu pweke ni uvundo 孤立するものは悪臭

 人とは、他の人と関係を持ち、お互いを認め合うものです。他人から孤立する人は、本当の意味で人ではないということです(「いやなにおいがする」ということ)。

 なんらかの事柄に関しては、他人の助けを必要とするものなので、孤立せず協力しなさいと説いています。(“mtu ni watu”を参照).

Mwana wa nyoka ni nyoka へびの子はへび(参照:蛙の子は蛙)

 へびが子を産むとき、他の被造物は産めません。同様に、すべての被造物は子孫を残すとき、まさにそれと同じ種を産みます。

 このことわざは、通常、そのひとが邪悪であれば、その子はその人のように邪悪な面を持ちあわすだろう、なぜなら良好な養育を受けないだろうから、ということを示すのに使われます。(“moto hauzai moto”と比較).

Mwenda pole hajikwai ゆっくり行く人はけつまずかない

 道中ゆっくり行く人は、ふつう慎重でいるので蹴躓きません。なにかにけつまずいても、急いで行く人がケガをするようには大事にはならないのです。

 このことわざは、ものごとを行うときには、がつがつするかせっかちでなく、慎重であるようにと教えています。このようなやり方で、ものごとはうまくいくのです。“haraka haraka haina baraka”を参照。

   

Nazi mbovu harabu ya nzima 腐ったヤシの実はほかを腐らす(参照:朱に交われば赤くなる)

 だめになったヤシの実を、そうでないものと一緒にかごの中に入れると、腐っていないほうを腐らせてしまいます。同様に、邪悪な者がそうでない者と共にいると、その邪悪さを伝染させてしまうのです。

 このことわざには、邪心を持った者が良心のある者と交わり、彼らを染めることのないようにという思いが込められています。.

Nazi haishindani na jiwe ヤシの実は石と争わない

 このことわざの意味と使い方は、“mpiga ngumi ukuta huumiza mkonowe”と同様です。

Ng’ombe akivunjika guu hukimbilia zizini 足を折った牛は柵内へ逃げ込む

 人が故郷を旅立つか、良いことか悪いことかをして集団を離れ、たどりついた先で困難にあったなら、その人が迎えられ守られる故郷に帰ることを恥とはしません。牛は足を怪我したら、やたらに歩き回ったりせず、もといた柵の中に逃げ帰るのですから。


Ng’ombe na mbuzi ni wamoja ; mtu kando (mbali) ni kondoo 牛と山羊は仲間;仲間はずれは羊

 牛は角があり、やぎにも角があります。角がないのはひつじです。なので牛とやぎは仲間、仲間はずれはひつじだということです。

 このことわざは、通じ合っている人たちの間に割って入って、やたらにかかわろうとするなと教えています。
 しかし彼ら(牛と山羊)が仲間意識を持っているにしても、第3者(羊)の福利はじゃまするわけではありません。ちょっかいを出した時、仲間はずれの羊は被害をこうむる、ということなのです。(meno ya mbwa hayaumani″を参照)

Nguo ya kuazima haisitiri matako 借り物の服は尻をかくさず

 借り物の服はあなたのではありません。他の人が自分自身で得たものだから、あなたの体を覆うものではないということになります。

 このことわざは、自立して、他人の世話にならないようにしなさい、ということを教えています。人を覆っているのはその人の服で、他人の物は、他の人を覆うことはできないのです。(“mtumai cha ndugu hufa yu hali maskini”を参照。)

Njia mbili zilimshinda fisi 2つの道はハイエナに勝る(≒二兎追うものは一兎をも得ず)

 このことわざは、まずは事柄ひとつひとつにあたるか取り組むかせよ、と教えています。一度にたくさんのことをしようとすると失敗する、ということです。(“mwangata mbili moja humponyoka”を参照)。
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Njia ya mwongo fupi うそつきの道は短い

 人は延々と嘘をつきとおすことはできます。しかし嘘を忘れてしまう時があり、そうなると責めを負うことになります。

 このことわざは、嘘をつくなと諭す時に使われます。

   


少々お待ちください。
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Penye mawimbi ndipo penye mlango 波こそは家

 このことわざで言うMlango(戸)とは家の戸、それも、海の近くの陸地または町の家の戸です。船乗りや漁師は大きな波に遭うのは陸地や町の近くであることを知っています。

 このことわざは、あらゆる種類の困難、苦労、苦難に遭った人に、遭った難題(つまりその波)は、ちかいうちに喜ぶ(まさに家)という兆しであるから挫折しないように、と励ますのに使われます。.

Pilipili usiyoila yakuwashiani (yakuwashia nini) ? 食べていない唐辛子のなにが辛いのか

 あなたをピリピリさせる唐辛子は、あなたが食べた唐辛子です。食べてもいない唐辛子は、あなたをピリピリさせることなどありません。

 このことわざは、関係もない事柄に首を突っ込んでいらいらしたりすることは浅はかだということを教えています。関係もない事柄は、食べてもいない唐辛子と同じで、人をピリピリさせることはないのです。

   

   

   

Subira huvuta kheri (heri) 忍耐は幸運を引き寄せる

 このことわざは、忍耐力を持ちなさいと教えるときに使われる。遭遇した困難や疑念や苦難にうろたえることなく忍耐する。さすれば事はうまく運ぶだろうということです(mstahamilivu hula mbivuを参照)。

   

   

Udongo upatilize uli maji 水気があるうち泥は扱え≒鉄は熱いうちに鍛えよ(イギリスのことわざ)

 泥は乾いてしまえば使いようがありませんが、水気がある時は形を作ったりさまざまにこねることが簡単です。このため、泥で何かを作りたいなら、使いようがなくなってしまわないよう、乾くまで待つなということです。水気があるうちに事を運びなさい。

 このことわざは、なにかことを行いたいなら、早いうちに行い、好機を逸してしまうまで待つなということを教えるのに使われます。例えば、親は早いうちに子供にしつけをし、大人になるまで待つなということです。なぜなら(時期を逸すれば)余計に難しくなってしまうからです。

Ukitaka cha mvunguni sharti uiname 卓下の物を欲するなら、かがまなければならない 

 卓下(ベッドの下など)にあるものが欲しいのなら、かがまずしてそれは得られません。かがんでこそ得られるのです。

 このことわざは、ある物事を遂行したいのなら、あるやり方を持って、忍耐するよりほかなく、そうしなけば、得られないと教えています。

Ukiujua huu, huu huujui これを知っていても、これは知らない

 いっぽうの側面を知っていても、もういっぽうは知らない、ということです。

 このことわざはすべてを知っている人はいないということを伝えるのに使われます。他の人たちよりある物事を知っていても、他の事柄については他の人たちのほうがあなたよりよく知っていることは往々にしてあるということです。

Ukiviona vyaelea (vyaolea) vimeundwa 浮かぶものはそう造られた

 海岸や湖に乗り物(船やボート)があれば、それらが突然現れたとは思わないでしょう。それらは誰かによって造られたものなのです。

 このことわざは、その人自身がたずさわらないで、ただ所望しても無理だということを伝えています。そのような物を欲するのなら、彼らが行ったようにすべきで、単なる寄生者ではいけないということを述べています。

Ukubwa ni jaa お偉いさんはゴミ捨て場

 jaaとはゴミ捨て場のことです。お偉いさんは実はゴミ捨て場です。(悪口や非難など)すべてのゴミが彼(あるいは彼女)に寄せられるからです。

 このことわざは、(指導層のような)地位と責任にある人が、人々から攻撃されたり非難されたりするときに、怒りをあらわにしないようにといっています。なぜなら地位が高いということは喜びではなくて、ゴミ捨て場、つまりすべてのゴミがそこに捨てられる場所だからです。

Ulimi hauna mfupa 舌は骨がない

 人は折ったり切ったりせず、思ったように舌を曲げることができます。なぜなら骨がないからです。

 このことわざは、長所もないのに、自分を褒めあげる人に対して使われます。そのような人は「好きなだけ自分を褒めあげるのに、舌を動かせ。誰も止めやしないさ」と言われてしまうのでです。

Usioweza kuukata, ubusu 切れなければ、接吻せよ

 あなたが切ることができない手なら、接吻しなさい。争いができないような相手なら、争うな。あなたに危害が加わらないよう、合意する道を探した方がよいということです。

 このことわざは、できない相手と喧嘩をしたり争うなということを教えています。

Usipoziba ufa utajenga ukuta 亀裂を埋めねば壁を再構築

 壁の亀裂をふさぐのを怠っていると、ますます割れ、しまいには壁は崩れてしまいます。

 このことわざは、物事が壊れかけたり悪くなりかけているのを見たときに、ほったらかさないようにと言っています。修復をしなければ一層壊れ、それ以上に大きな損害をもたらすでしょう。例えば、小さくも重大な傷をほったらかした場合、傷が大きくなるかあるいは、足を切断しなければならない事態になります。また、小さなかぎ裂きの服を縫うのを怠れば、しまいには全部破けてしまうということと同じです。

Vita vya panzi neema ya kunguru バッタの争いはカラスの利益(漁夫の利)

 バッタ(イナゴ)同士が争う時、カラスはタダで簡単に食べ物を得ることができます。

 このことわざは、ふたりの人が(あるいはふた組が)争うとき、利益を得るのは第三者だということです。争った者たちは実は損失をこうむるだけなので、争わないように努力せよと諭しています。.


少々お待ちください。
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