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東アフリカってこんなところ 補足ページ 歴史

●アラブとの接触

 7世紀末ごろまで東アフリカ沿岸は、外からの勢力の関心の外にあったと言えます。当時はオマーンからのイスラム教シーア派の人々や、シラジからのスンニ派の人々が、流民として訪れる程度でした。

 15世紀ごろ、東アフリカのビクトリア湖周辺の肥沃な土地に、牧畜民族が侵入し始め、農耕民族を圧制し支配していきます。王国が成立し始め、なかでも強大になっていったのがブガンダ王国(現ウガンダ)でした。
 18世紀にブガンダ王国はインド洋沿岸との貿易に乗り出しますが、仲介役となったのが沿岸地域に住み、「スワヒリ語」と呼ばれる言語を話す商人たちでした。

●アフリカ大陸の奴隷貿易

 一般に「奴隷貿易」といわれるアフリカからの住民の輸出は、17世紀に西アフリカから大西洋を渡り新大陸に送られるものが量として巨大ですが、東アフリカでも西アフリカに続き、奴隷貿易が行われたという歴史があります。

 アフリカ大陸の奴隷貿易の初期といえるものに、サハラ以南から北アフリカへ、金と並んでわずかながら送られていた奴隷たちがあげられます。
 ポルトガル勢力がアフリカ大陸へ到達したのち、異教徒の奴隷化を認めた1455年の法王教書を口実にして、アフリカの住民を本格的に労働力として用いたころから、奴隷貿易は本格化していきます。
 
 その後、西アフリカからポルトガル勢力を駆逐したオランダや、続くイギリス、フランスが、砂糖プランテーションのためにアフリカ人奴隷労働力を要し、奴隷貿易がさらに活発化していきました。

 東アフリカにおいても奴隷貿易は、18世紀中ごろフランスがモーリシャス周辺にさとうきびプランテーションをひらいたために、奴隷を必要としたというきっかけがあります。またポルトガルもブラジルに送る奴隷を要し、東アフリカでも奴隷貿易が活発になっていきました。
 別の背景として、1800年代初頭に西アフリカでは、イギリスが奴隷貿易を禁止し、フランスもこれに続いたため、奴隷貿易の軸が東側に移ってきたことがあげられます。

 19世紀初めには、東アフリカのインド洋沿岸一帯には、アラブやスワヒリ人の居住地が点在するようになっていました。そこでは内陸部との貿易が行われていましたが、この頃には内陸の民族たちも、商売に積極的に参入し始めていました。主な交易品は穀物と象牙です。
 この頃より、アラビア半島のマスカット・オマーン地域のアラブ人による東アフリカ進出が活発になっていきます。この動きの中心人物が、マスカットの領主、セイド(セイード)・サイドでした。

 セイド・サイドはザンジバル島を根拠地とし、沿岸貿易を支配しようとしていました。実際に沿岸部の覇権を握り、1840年、本拠地をマスカットからザンジバル島へ移し、アジア、ヨーロッパとの交易を活発化させていきます。

 ザンジバル島ではセイド・サイドがクローブのプランテーションに奴隷を要し、またその奴隷たちをオマーンやイラクに送ることにより、1830年以降、東アフリカにおける奴隷貿易が特に激しくなっていきました。

   
左"Historia : Shule za Msingi, Jamii za Watanzania hadi mwaka 1880",Mbwiliza J.F.他,Taasisi ya Elimu Dar es Salaam, 初版1986年(絶版)p.74
右"Historia : Shule za Msingi, Jamii za Watanzania tangu mwaka 1880",Mbwiliza J.F.他,Taasisi ya Elimu Dar es Salaam, 初版1986年(絶版)p.39

 奴隷は内陸で「狩られ」、海岸地方へ連れてこられました。その後せりにかけられ船で送り出されました。
 奴隷として狩られる際には、敵対している民族どうしの間で、一方が商人に相手側を渡すこともありました。
 人々は何百キロという道のりを、少ない水と食料だけで海岸地方まで歩かされたため、多くが道中で亡くなりました。
 せりに出される際は健康状態が重視されましたが、買い手がついたのちも輸送される船の中で死亡したり、到着後も劣悪な環境の中で労働をさせられ、多くが命を落としました。アフリカ大陸にとっては大きな人的損失を受けた時代です。

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東アフリカってこんなところ 補足ページ 都市の発達 ダル・エス・サラームを事例に

●ダル・エス・サラームの地理的位置と発展の歴史

1.地理的位置と特徴

 タンザニアの首都は、正式なところ大陸部中心のドドマ(Dodoma)ですが、その経済的重要性は、長年首都であり、現在でも事実上その機能を持つダル・エス・サラームに集中しています。ダル・エス・サラーム自体がひとつの州を形成していますが、州面積はタンザニア大陸部20州のうちで最も小さい1393平方キロメートルです。

 過去にダル・エス・サラーム州はプワニ(Pwani/海岸)州に含まれていましたが、現在では独立した州になっています。そのためプワニ州はダル・エス州を取り巻いており、ダル・エス州は東をインド洋、西をルヴ(Ruvu)渓谷、北をワミ(Wami)低地、南をルフィジ(Rufiji)低地によって分けられたプワニ州のほぼ東側中央に位置しています。

 ダル・エス・サラーム(以下ダル・エス)を中心に見ると、南へは海岸線に沿いに60qほど大陸棚の端が続いています。この大陸棚はダル・エスの北側において、ザンジバル島に沿って弧を描くように向きを変えています。また、ダル・エスの北部海岸はおおざっぱに3種類に分類できます。カンカディヤ(Kankadya)のような急な崖の部分、カウェ(Kawe)のような砂畝の緩やかな崖、そして砂丘地帯です。石英の砂畝において、低い砂丘はムササニ(Msasani)からクンドゥチ(Kunduchi)を越えてバガモヨ(Bagamoyo)方面ムブウェニ(Mbweni)の北へと海岸線を形成しています。

 いっぽうダル・エスの南部において砂畝は北側ほど広がりを持っておらず、ムジムウェマ(Mjimwema)やムボアマジ(Mboamaji)のように河口と交じり合い、湿地を形成しています。これは河川堆積物による海岸境界における土壌再形成の結果といえます。

 河口と砂洲は、地理あるいは環境的視点での、大陸と海洋の境界・緩衝地帯です。河口はダル・エス港や南部のキンビジ(Kimbiji)のようなリアスを形作る流れ谷の口として突起しており、砂洲は沖合の海砂境界線の変化を通して形成されました。例えばマニェマ(Manyema)湿地帯は、クンドゥチ地帯の河口と砂洲の間の媒介地であり、また現在の市内と市北部を分けているムシンバズィ(Msimbazi)入り江は、海水と河川の交差を示しながら、河口環境の例を表しています。河口はセランダー橋(Selander Bridge)に使用されていますが、マングローブなどに適する上流堆積物を有しています。そしてこの入り江はまた、市内マゴメニ(Magomeni)とムヒンビリ(Muhimbili)間の排水の悪い沖積層として影響を及ぼしています。

 ダル・エスの北西は海岸後背の平地です。この平地は西に10q、カウェの北一帯、南西に5qから8qに広がっており、南西においてはムズィンガ(Mzinga)入り江から隆起した内陸へ次第に変わっていきます。平地全体としては、海岸から3%以下という緩やかな傾斜によって縁を形成していますが、さまざまな深さにおいて、西の内陸台地を形成する粘土質土壌などを含んでいます。

 海岸低地平野としての特徴は湿地帯と池に現れています。現在では埋め立て等によって縮小したり見られなくなった池も、もともとは海岸砂や堆積物によってせき止められた結果できたものでした。池は特にダル・エスの南東部、海抜13mのマゴメニ池や17mのムワナニャマラ(Mwananyamala)池を含む、タンダレ(Tandale)、ミニョニョニ(Minyonyoni)、テンゲ(Tenge)池の海抜23mとマクルムラ(Makulumula)池の海抜8mの間に点在していました。

 低地に対して、ムズィンガ入り江から南南西へは、2つの丘陵が走っています。ひとつは海抜171mの西部キロエケ(Kiloeke)丘陵であり、もう片方は海抜140mのルグルニ(Luguruni)東部丘陵です。双方とも海岸とプグ(Pugu)地域の東部境界を形成する断層へ並行して走っています。プグはダル・エスの南西海抜330m地帯です。また北東にはクンドゥチとウブンゴの間に、マコンゴ(Makongo)の丘陵が存在します。この市内側の丘陵裾野に、ダル・エス・サラーム大学の敷地があります。

 以上のような地理的特徴は、市が形成されるにあたって多大な影響を与える要因となります。特に湿地・高地は治水・排水面に影響を及ぼし、おのずと市内居住の特徴をもあらわすこととなります。このような地理的特徴をふまえ、続いて歴史の面からダル・エス・サラームの発達を概観したいと思います。


2.ダル・エス・サラームの発展の歴史

 以下でダル・エス・サラームの発達について、居住地の拡大要因やそこに暮らす人々の特質などを含めながら、A.スルタンの時代、B.ドイツ東アフリカからイギリス統治時代、C.独立から現在(2000年前後)までの3区分に分けてながめていきましょう。

A. スルタンの時代

 Mascarenhasという研究者は、1860年代以前にダル・エス・サラームが船着場として使用されることはほとんどなかったとしています(Mascarenhas. A.C., The Port of Dar es Salaam, in Transport in East Africa, 1978, p.13.) 。19世紀に発達したバガモヨや、バガモヨの先駆地カオレ(Kaole)、また後にオーシャンロード(Ocean Road)病院が建設されるムズィズィマ(Mzizima)などが、ダル・エス・サラームより古く存在した町でした。

 Suttonという研究者は、現在のダル・エス・サラームに近いムズィズィマがダル・エス発祥に関したとはほとんど言えないとしています(Sutton.J.E.G., Dar es Salaam, 1970, p.3.)。それはムズィズィマが海に面した停泊地の村として開けたのに対し、ダル・エスは入り江の港の中に位置付けられていったからです。その後ダル・エスは発展の過程で、近郊の小さな村々を飲み込み、ムササニの大きな村を破壊せずに包含したように、ムズィズィマの村も含んでいったとみられています。

 1860年代、ダル・エス・サラームの基礎を築いた出来事は、一部始終が明らかになっているわけではありません。しかし市が誕生したのは緩やかな生成発展的な過程ではなく、「壮大に計画された」ものであったとSuttonは述べています(Sutton.J.E.G., op cit, pp.3-4.)。

 都市がザンジバルのスルタン、セイード・マジド(Seyyid Majid)その人によって計画されたものか、彼の側近によるものか、または外国の特使あるいはフランス人宣教師などによって促進されたものであるのか等は明らかにされていません。しかしどのようなきっかけであれ、スルタン・マジドの意図の中には、ダル・エス・サラームに大陸からザンジバル島へ向かう商業キャラバンの終着地、また東アフリカの商業中心地を建設しようという思惑があったことは推測ができます。それは内陸に対する政治的支配と、ザンジバル商業利益の拡大という要因に動かされたものでした。

 それではなぜダル・エス・サラームがスルタン・マジドの内陸における宮殿建設地になったかという要因ですが、以下に2つを記してみたいと思います。ひとつは熱帯産樹脂とザラモ(Zaramo)民族による食料生産の増加による、バガモヨ南部地域の重要性の高まりです。もうひとつは土着の人々、商人あるいは顧客の居住地としてのバガモヨに対する、スルタン自身の新しい居住地としてのダル・エス・サラームです。

 スルタン・マジドがダル・エス・サラームの基本設計を想起したのは1862年あたりであるといわれています。1866年に新都市建設地としての名前が散見されますが、それ以前に着工がなされた形跡はありません。バガモヨにおける商業利益とは同様でなかったにもかかわらず、インド人たちは早くに居住し、ダル・エスの商業基盤を作ったとみられています。聖霊宣教会(Holy Ghost Mission)の記録によると、1869年の市内人口はおよそ900人でした(Sutton.J.E.G., op cit, p.5.)。

 1870年のスルタン・マジドの死により、新都市は一時期荒廃の様相を呈します。後継者のセイード・バルガシュ(Seyyid Barghash)が居住地をザンジバルに戻したためです。しかし1870年から、1887年のドイツ東アフリカ会社(the German East Africa Company)のダル・エスへの進出の間を、市の基礎形成の時期だったと見るむきもあります。

 1874年にイギリスはダル・エスからニャサ湖への道路建設を計画しています。しかしこの計画は1881年に、南西83マイル進んだ時点で工事は放棄されるという結果になりました。またこのような建設がなされている間、土着の民族であるザラモ人は、ゴム、ココヤシ、米、魚といった産品の生産量を増加させていきました。ドイツ東アフリカ会社が進出する1887年までに900だった人口は4000から5000人に増加していたとされています(Sutton.J.E.G., op cit, p.7.)。


B.ドイツ東アフリカからイギリス統治時代

 1885年、ダル・エス・サラームを訪れたドイツ人たちは、大陸部利用を目的としたダル・エスの港の使用許可を、ザンジバルのスルタンから得ることになります。その後ダル・エスのドイツ人は、1887年のドイツ東アフリカ会社の鉄道駅建設、土着民族の居住地占有や、ドイツ人に対して払われるべき税などをめぐって、アラブと結びついた地元民等の蜂起にあうことになります。1891年に蜂起は鎮圧され、これによりドイツ東アフリカ会社はダル・エスを統治の中心地、商業通信の主要港とするようになります。


     1891年のダル・エス・サラーム中心街 上が西です。ヤシの木が残る閑散とした入江の面影がうかがわれます。

 当時のダル・エス・サラームの市街は、入り江や小渓谷、また比較的乾燥した地帯にも広がっていきました。ムズィンガ入り江の門にあたるキヴコニ(Kivukoni)とキガンボニ(Kigamboni)から眺めて正面に位置するゲレザニ(Gerezani)は、現在では大型船発着場所として機能していますが、このような深い位置の船舶停泊地が作られて以来、陸においても市中心と結ぶ港湾用地となっています。またそこから広がる小渓谷は、現在のプグロード(Pugu Road)とキルワロード(Kilwa Road)地帯を形成しています。いっぽう港湾地帯より北の、直接海に面したムシンバズィ入り江は、地理的に市中心と北側郊外を分けています。しかしドイツ統治が終了し、1919年にイギリスのタンガニーカ統治が始まった後の1920年代にかけられたセランダー橋によって、幹線道路であるバガモヨロード(Bagamoyo Road)は直接市中心部へ結びついていきました。

 1890年代にドイツの大陸部統治機構は、港湾と問屋などの商業中心地であるゲレザニ周辺より北側の入り江口一帯に、統治に必要な新しい建物を建設し始めました。これらは現在でもタンザニア政府の官庁、国立博物館、病院、ホールとして利用されています。また、イギリス統治が始まり、橋が建設されてからは、手狭になった中央の高級住宅地にかわって、北部郊外にヨーロッパ人住宅建設地の拡大傾向が現れるようになります。それらの市郊外人口は後に市中心部へ向かう旅客人口を生み出していきました。

 キノンドニ(Kinondoni)、オイスターベイ(Oyster Bay)、ムササニなどは第2次世界大戦後に開発が進んだ地区です。なかでもムササニは、ヨーロッパ人のクラブやホテルが市北部に存在していたため、当時これらの施設やヨーロッパ人宅で働くハウスボーイ居住地として知られていました。

 いっぽう町の形成当初から移住のあったインド人ですが、ドイツ統治時代からの中央機構がある入り江の口から南部に広がった地帯にコミュニティーを形成していきました。この地区はウヒンディーニ(Uhindini)と呼ばれ、当初は小さな商店、工場、あるいは家内工業の小さなビルが集まっていましたが、長期間にわたる商業の末、大きなビルが建設されるようになっていきました。

 その後商業比重と人口が増加するにしたがって、インド人たちも郊外へ居住地を求めるようになります。彼らの移った先は主に、市中心とムシンバズィ入り江の間のウパンガ(Upanga)でした。この地区には現在でもさまざまな職種に携わるインド系の人々の居住が見られます。

 ダル・エス・サラームの工業地区は、1900年代初頭の鉄道駅建設に関連して、その地区を自ずから決定していったともいえます。原料・生産品を貯蔵する倉庫の関係で、工場は鉄道に沿って建設される傾向を示していきました。プグロードに沿ってチャンゴンベ(Chang’ombe)へは当初陶土採掘とレンガ作りが発達し、またモロゴロロードに沿ったウブンゴ方面では、1960年代後半に大規模な縫製工場が稼動を開始しました。また港湾近くのクラシニ(Kurasini)は現在でも工業の重要地です。

 上記のような商工業に労働力を提供するのはアフリカ人ですが、1920年あたりまで、労働者階級の居住地は自然発生的に形成されていったといわれています。アフリカ人労働者の居住地は、ザラモとザラモ以外の移住者によって、ザラモの居住地から発生していきました。それは現在になって再計画された地区もあれば、ブグルニ(Buguruni)のように非計画的に残っている地域もあります。また移住者のある部分は親類縁者を頼って都市に出てくるため、一地区に一民族が多く居住する傾向を示すこともありました。


       1941年のダル・エス・サラーム中心街 上が西です。1891年に比べ、都市化の様相を示してきたことが見て取れます。

 市中心部へ隣接した地区の再開発の必要性は、ドイツ統治時代にすでに指摘され、カリアコー(Kariakoo)周辺の開発は第一次世界大戦以前に計画されていました。1960年代のカリアコーはすでに、現在見られるような社会的中核の様相を呈しています。カリアコーはムナジ・ムモジャ(Mnazi Mmoja)のグリーンベルトによってウヒンディーニの商業地区から分離されていますが、インド人商店やビルはカリアコー中心部まで広がっています。しかしカリアコー地区の多くの家々は典型的なスワヒリ家屋註であることも見逃せません。

 第2次大戦後のアフリカ人労働者の生活状態は、増え続ける都市人口、高い完全失業率、低い労働賃金、それに伴なうスラムでの不衛生というような、現在でも解決されていない危機的状況を示しました。1950年以降イギリス政府統治下での経済拡大、都市再開発や雇用機会維持といった目標は、物価上昇や毎年増え続ける都市人口の重圧下にあったといえます。


C.独立から西暦2000年前後まで

 タンザニア連合共和国は1964年に成立しましたが、翌年1965年のダル・エス市密集地域の人口はおよそ27万であり、学生や兵士を合わせると約30万人であったと、1968年に作成されたマスタープランは報告しています(The Government of the United Republic of Tanzania., Transportation Studies,  in National Capital Master Plan, 1968, p.6)。これらの民族的内訳は表1−1のとおりです。

 過去10年ごとに行なわれた人口調査において、ダル・エス・サラームは都市化の傾向を顕著に示しています。表1−2は1960年代のタンザニア全体と、ダル・エス・サラーム州の人口の推移を表したものです。

  比 率

  人 数

アフリカ系

  81.9%

 182,959人

アジア系

  14.3%

  31,838人

アラブ系/その他

   1.6%

    3,473人

ヨーロッパ系

     2.2%

    4,901人

   表1−1 1960年代のダル・エス・サラーム市中心部住民の民族構成 1965年
    出典 : Transportation Studies, in National Capital Master Plan, 1968

 タンザニア全土(1960年代〜)

    年度

   1967

   1978

  1988

   人口数

  11,958,700

  17,036,500

 22,533,800

   年増加率

   −

   3.2

  2.8


 ダル・エス・サラーム州(1960年代〜)

    年度

   1967

   1978

  1988

   人口数

  356,300

  843,100

 1,360,900

   年増加率

   −

   8.1

  4.9

  表1−2 タンザニア全土とダル・エス・サラーム州の人口数と年増加率
  出典 : Endo, Kazushige., Evaluation of Road Rehabilitation Project in Tanzania,  1998, p.12.

 前出の1968年のマスタープランは、当時の法定地区48000エーカーの使用内訳を表1−3のように示しています。この表からは直接図れませんが、ダル・エス・サラームの地勢上の多様さは、近年の地区計画と都市の自然的発展状況にも影響を与えています。

     土地使用

 計画地区

計画地区外

   計

 住宅地

 4013

 1178

 5191

 住宅・商業混成地

  243

    −

  243

 商業地

   87

    −

   87

 倉庫(鉄道・道路含)

  805

  393

 1198

公共施設関連(政府官庁含)

  942

  169

 1111

 教育関連

  527

   46

  573

 大学

    −

  920

  920

 広場(公共)

  562

  183

  745

 広場(私有)

  169

    −

  169

 墓地

  164

    −

  164

 空港

    −

 1274

 1274

 設置目的の空地

 4246

 2177

 6423

 耕作地/空地

 4482

24236

28718

 軍用地

  100

 1084

 1184

     計

16340

31660

48000

    表1−3  法定地区土地使用内訳 1968年 単位エーカー
    出典 : Transportation Studies., op cit, 1968, pp.7-8.

 また共和国成立後の雇用状況も、マスタープランは次のように記しています。表1−4は中央統計局(the Central Statistical Bureau)が示した、1961年から65年までの5年間の就業人口の推移で、続く表1−5は1963年における、アフリカ人男性に関する雇用内容です。

 1961年

  37107人

 1964年

  45802人

 1962年

  42194人

 1965年

  54600人

 1963年

  43497人

 

 

    表1−4  就業人口推移
    出典 : Transportation Studies., op cit, 1968, p.9.

 政治・行政

 2181

 その他の技術職

 6457

 知的専門職

 2128

 消防・警察・看守

 1538

 事務職(聖職者含)

 6268

 国内軍事関係

 1364

 商業

  814

 人頭夫・作業長

 1160

 運輸業

 1806

 伝令・清掃員

 2710

 修理・電気工

 1943

 未熟練工

14300

 大工

  944

 分類不能

  153

 石工

  436

    計

44202

    表1−5 アフリカ人男性就業職種内訳 1968年 単位
    出典 : Transportation Studies., op cit, 1968, p.10.

 上記の就業に関連して、1965年には平均月収を人種・民族別で表す統計が出されています。この年のダル・エス・サラーム市平均月収は70シリングですが、タンザニア平均は23.5シリングでした。ダル・エス市内の就業者5分の3は平均月収300シリング以下で、1000シリング以上は12%のみです(表1−6)

  

アフリカ系

アラブ系

アジア系

 欧州系

 

 100シリング以下

   8%

   −

   1%

   −

   7%

 101−200

  36%

   8%

   4%

   −

  29%

 201−300

  21%

  20%

   4%

   −

  17%

 301−400

   7%

  20%

   3%

   −

   6%

 401−500

   3%

   4%

   6%

   −

   3%

 501−600

   2%

   2%

   6%

   −

   2%

 601−800

   1%

  13%

   9%

   1%

   3%

 801−1000

   1%

   2%

  18%

   5%

   3%

 1000シリング以上

   2%

  13%

  37%

  89%

  12%

 無収入/失業

  10%

   7%

   6%

   2%

  10%

 回答拒否

   3%

   4%

   3%

   2%

   3%

 分からない

   6%

   7%

   3%

   1%

   5%

   計

 100%

 100%

 100%

 100%

 100%

     表1−6 人種・民族別平均月収 1965年
     出典 : Transportation Studies., op cit, 1968, pp.11-12.

 2000年においてダル・エス・サラーム州は南北およそ35q、東西およそ30kmの広さを有していますが、近年の居住地拡大のいくつかは1967年以降に起こり、特に市の不規則な拡大は1978年以降顕著であるといわれています(Briggs.J and D.Mwamfupe., Peri-urban Development in an Era of Structural Adjustment in Africa, 2000, p.802.)。前述のように、十分な雇用の保証がなかったにもかかわらず、タンザニア全土の個人収入の低さゆえに、雇用機会の多いダル・エスに、人々は引き寄せられていったと見て良いと言えます。



   ダル・エス・サラーム市内土地利用図 1967年

 1990年代の居住地は、ダル・エス市の西へ、1978年にウブンゴを限界に計画された都市居住地域から、キマラ(Kimara)やキバンバ(Kibamba)といった地理的に明らかに分離した村々を含みながら、さらに30q以上越えた地域に広がっており、南へも同様なことが起こっています。1980年代半ば、南部への市の不規則な拡大は、ムバガラ(Mbagala)からプグを抱合しつつ南西へ伸びていきました。また北のムベズィ・ビーチ(Mbezi Beach)は1978年には未墾の地でしたが、特に1980年代の後半から急激な拡大を見せていきます(Briggs.G., op cit, 1993, pp.117-118.)。

 下記図は
はダル・エス・サラームの都市拡大を示したものです。1992年までの市の拡大は手のひら状に起こり、指状の部分の間にすき間地域ができていました。それらの土地は耕されるか空地となっていましたが、1992年以降、人口増加継続を背景として、直線状に広がる都市拡大の特殊なパターンはいくぶん形を変えてきました。1998年以降は、マコンゴのような北北西方面と北西方面の間の地域といったすき間部分に、都市の拡大が現れています。

 色が濃いほうから1945年、1976年、1978年、1992年、1998年の都市拡大の様相

 いっぽうムズィンガ入り江を越えた南東部分への都市拡大は、北部の拡大に比べるとより緩慢です。それらの部分はチャンゴンベやヴィングングゥティ(Vingunguti)といった南西部の工業地帯へ比較的近郊であるにもかかわらず、手付かずの部分をいくらか抱えています。


しばらく更新が続きます。
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東アフリカってこんなところ 補足ページ 交通

●東アフリカの陸上交通の変遷 −タンザニア大陸部の陸上交通を事例にー

 東アフリカのタンザニア大陸部における現代交通システム設立の試みは、ドイツ統治時代の1884年から1918年にさかのぼります。これ以前1800年代後半までのタンガニーカ(タンザニア大陸部)における移動・輸送形式はおもに、徒歩と頭上運搬でした。これらはアラブのキャラバン隊、またドイツ統治初期に一般的であった人陸システムを指します。

 当時、山からおりてきた男たちがポーターとして各地を行き来しました。しかし労働季節における主要労働力の不在や、危険に対する補償のなさ、また同時になされた牛の運搬におけるツェツェバエ(ヒトの睡眠病や家畜のナガナ病のトリパノゾーマを媒介する)の被害などが、負の面として報告されています。

 ドイツ統治以前の試みとしては、1876年に英国船会社のウィリアム・マッキノン(William Mackinnon)とその仲間が、商業目的でダル・エス・サラームからニャサ(Nyasa/マラウィMalawi)湖までの道路を開設するというものがありました。しかしこちらもツェツェバエのために計画はとん挫しています。

 こののち、ドイツ東アフリカ会社(the German East African Company)がタンガニーカの経済・社会構造を変えることになりますが、ドイツのタンガニーカにおける鉄道計画の主要な目的は、後背地の占拠とコンゴでとれる鉱物資源の輸出でした。
 最初の鉄道建設は、ドイツ東アフリカ会社によって、途中1891年から96年まで資金不足のため建設が中断した状況を経て、1896年から1911年の間に、タンガ(Tanga)−モシ(Moshi)で完成しています。

 ダル・エス・サラーム(Dar-es-Salaam)からの路線は、港と後背地の広域市場確保の中央路線を建設するという目的で、1904年にドイツ本国の立法府により、建設許可を受けています。
 この路線は、東アフリカ会社がベルリンで資金を提供することになり、土地統治のため、鉄道路線に沿った最重要地区にホテルを建設するという2次的な事業も始められました。

 この後、タンガニーカでは各地に鉄道建設の試みがなされますが、純粋な経済の視点からすると、それらは利子と原価におぎなうに見合う収入を得られてはおらず、失敗は明らかでした。そして1916年、戦争の終結により、ドイツは鉄道の放棄を余儀なくされました。

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 鉄道が現実化したなかで、ドイツはほかの交通様式にも注目していました。そして食料供給のためのキャラバンルート、渡し船、馬などの整備を開始し始めます。なかでも最も留意されたのが、植民地統治における最初の幹線道路であるモロゴロ(Morogoro)−ダル・エス・サラーム間の道路でした。この道路は当初30キロの砂利道でした。当時この路線のほかに通年の動力車用道路はなく、ほかの道路が乾季のみ動力車用となっただけでした。ただし支線的な道路はヨーロッパ人が多数居住したタンガやモロゴロの後背地に散在していました。このような徒歩道やキャラバンルートは、1894年以降、拡張され橋がかけられるといった改良がなされていきました。

 以上のように、ドイツ植民時代の30年は、タンガニーカの経済と社会構造を飛躍的に変えました。交通における基本的な変化は、頭上運搬による徒歩に代わっての鉄道建設とトラックの改良だったのでした。

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 2つの世界大戦期、ドイツからイギリスへの植民統治の移行は、戦後早期の道路拡張計画を不可能にしました。1920年から1929年まで、新たにタンガニーカの宗主国となったイギリスは、交通需要に鉄道をあてる方針をとります。この時期の作業は戦後の混乱を緩和することであり、路線のダメージを回復させ、平時作業のための計画を推進することに主眼が置かれました。労働者は新たにインドから雇われ、新しい機関車が導入され、作業場は拡張・刷新されます。

 しかし1925年から1966年の間、851マイルの鉄道網が建設されたにもかかわらず、7つの路線は閉鎖されたままでした。いっぽう稼働していた路線としては、タンガニーカ中央部地域の発展を意図していたマニョニ(Manyoni)−キニャンギリ(Kinyangiri)線や、南部の路線があげられます。南部路線はムトゥワラ(Mtwara)港の建設を伴うという、一時的な成果も上げていました。

 それでも1955年から1960年にかけて、これらは年間に相当額の負債を出すことになります。この負債は鉄道統治の助成金からタンガニーカ政府が負うことになりましたが、最終的に路線は取り去られうという結果になったのでした。

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 タンガニーカにおける鉄道は1950年代に全盛期を迎えていました。しかし実質上、組織面・技術面の荒廃は始まっており、こののち、発展的意図の鉄道建設というドイツ時代からの見地は次第に力を失って行きます。いっぽう道路状態が悪いにもかかわらず、道路交通は1930年以降、重要さを担い始めていました。

 1921年から1946年の間、タンガニーカの主要道路合計マイル数は、2159から2956へと26%の伸びを示しました。この時期、車両数だけでなく、車両の重量も増加します。このために交通に関する特別委員会は、車両の質・重量の増加に対処するため、また渋滞の増加を見越して、交通分野における将来的な問題を克服するための道を模索し始めます。提言は1946年から10年間の最初の植民地開発・福祉計画に取り入れられました。

 例えば、南アフリカおよびローデシア(現在のジンバブエ)から東アフリカへの幹線交通路である”Great North Road"は、タンガニーカ内を南北に、ケニア国境からザンビア国境までを貫いていました。また、モロゴロ(Morogoro)からイリンガ(Iringa)、コログゥエ(Korogwe)へといった新しい幹線道路も建設されました。

 しかし、道路建設は技術的な問題からばかりでなく、道路建設が鉄道の成功を危うくするという危機感を抱いた鉄道技術者たちの反対のために、しばしば難航したのも事実です。鉄道技術者たちは、レールに平行した長距離の道路建設に反対しました。このため当初は交通許可局(Transport Licensing Authority)も、「自動車は鉄道に対する単なる補助手段である」という見解を示しました。これにより当時鉄道は交通の中核としてとどまり、交通システムの競争から守られたという経緯があります。

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 いっぽう、1961年から64年にかけての3ヶ年開発計画において、現在でも有効な交通政策の基本概念が示されています。目的は国じゅうへ低コストの道路システムを建設することでした。低コスト道路は、当然のことながら、交通需要がありなおかつ経済状態が許すときに施行されるように、設計、建設、維持される必要がありました。

 現在でもタンザニア大陸部の主要幹線道路は改良が続けられていますが、道路交通事業は乗客と物資の輸送双方を重んじつつ、その範囲を広げています。

 新しい道路の改良・建設工事 @e-kankanderi.com


Atlasi kwa Shule za msingi Tanzania, p.21
タンザニアを事例に、近年(2000年代)の交通網
黒太線:舗装道路、 黒細線:未舗装道路、 条網線:鉄道、 その他、国際線・国内線空港、湾港など

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●東アフリカへのキリスト教の移入 −タンザニアを事例にー

 7世紀以来すでにイスラム教が入っていた東アフリカの海岸地方に、16世紀から17世紀にかけてポルトガルが勢力を伸ばしてきました。
 ポルトガルは1698年のフォート・ジーザスの陥落によって東アフリカ海岸地方の支配から撤退しますが、19世紀後半まで続くスルタンの海岸地方の支配の後、ドイツ・イギリスが東アフリカを支配すると、欧米のキリスト教宣教団は、こぞってこの地に進出し始めます。

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 現在のタンザニア大陸部(タンガニーカ)にあたる場所に、はじめて宣教所が設けられたのは1505年のことで、この宣教所はキルワ(Kilwa)に建てられたポルトガルの要塞の中に、2名のフランシスコ会修道士によって設立されたものでした。しかしこの要塞はポルトガルの撤退によって、1513年には取り壊されています。以来タンザニアには1800年代半ばまでは、主だった宣教所は存在しませんでした。

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 1800年代半ば、タンザニア大陸部にいち早く入ったのは、アングリカン教会(Anglican Church聖公会/英国聖公会)組織のthe Church Missionary Society(CMS 英国聖公会宣教協会)でした。
 ドイツ人宣教師クラップは、1844年、ケニアのモンバサに到着し、英国聖公会を初めて東アフリカ海岸地方と結びつけました。クラップは同僚の宣教師を待つ間、旧約聖書のスワヒリ語訳にも着手しています。

 聖公会から宣教師レープマンが派遣されると、ふたりは新ラバイ(モンバサ近くの地名)に居を構え、1847年から51年にかけて東アフリカ各地を探検します。彼らはキリマンジャロ山を見た初めてのヨーロッパ人となりました。

 同じくアングリカン教会組織に属するthe Universities Mission to Central Africa(UMCA)が、宣教団の拠点を開く目的で、ニャサランド(現マラウィ)からザンジバルへ渡ったのは、1863年のことでした。
 UMCAはザンジバル到着の5年後の1868年には、大陸部のウサンバラ(Usambara)などに宣教所を建設しています。CMSとUMCAは1960年に統合し、Anglican Church of East Africa(東アフリカ聖公会)となりました。

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 UMCAに先立ってザンジバルに入っていたのは、ローマ・カトリック教会の修道会ホーリー・ゴースト・ファーザーズ(the Holy Ghost Fathers)です。
 ローマ・カトリック教会の宣教団の中で、早い時期にタンザニアに入り、勢力を分け合ったのは、このホーリー・ゴースト・ファーザーズと、ホワイト・ファーザーズ(the White Fathers)、およびベネディクト会(the Benedictine Fathers)の3組織でした。

 ホーリー・ゴースト・ファーザーズは、レ・ユニオンからザンジバル島へ入り、そこから1868年に、大陸の海岸地方で奴隷の積出港であったバガモヨ(Bagamayo)に到着し、その地で宣教所を開きました。彼らはそののち、主にバガモヨからキリマンジャロへと向かう大陸北部のルートで宣教を行いました。

 続いてタンザニア大陸部へ到着したのは、フランス人大司教を主体とした10人の神父からなるホワイト・ファーザーズでした。彼らは1878年にバガモヨに拠点を築いた後、タボラ(Tabora)やタンガニーカ湖といったタンザニア大陸部の中央を縦断するコースをとりながら宣教活動を行いました。

 主要3修道会のうち、ザンジバル島およびタンガニーカでもっとも遅く宣教活動を始めたのがベネディクト会でした。ドイツに本部を置くこの修道会は、1886年に大陸部にドイツ植民会社が進出し、1890年のドイツ‐イギリス間の合意によってタンガニーカ(タンザニア大陸部)がドイツ植民地となると、ドイツ人マルティン・ルターの宗教改革に基礎を置くプロテスタントの主流派教会であるルーテル教会とともに、タンザニアにおける宣教を活発化させました。

 ベネディクト会の修道士・修道女たちは1887年にザンジバル島へ渡ったのち、翌年、ダル・エス・サラームから20Km離れたプグ(Pugu)に宣教所を築きますが、1889年にアラブ・スワヒリ勢力によって同所が徹底的に破壊されたため、同年ダル・エス・サラームに居を移すことになります。
 彼らは主に大陸南部での宣教活動に力を入れ、ペラミホ(Peramiho)を中心に南部各地に拠点を開きます。
 1905年に、ドイツの支配に対して蜂起した民衆によるマジマジ(Maji Maji)戦争によってこれらの拠点は被害を受けますが、ドイツ植民地政府の保護と援助を受けていた同会hそののち、チポレ(Chipole)、イミリワハ(Imiliwaha)、ンダンダ(Ndanda)に女子修道院を開くなどの伸張を続けました。

 
 現在では主にアフリカ人の修道女たちが大勢共同生活をする修道院。@e-kankanderi.com

 以上の3修道会が、初期にタンザニアに入ったローマ・カトリックの勢力ですが、その後の第1次世界大戦前後には、カプチン、コンソラータ、パッショニスト、パロッティなどの宣教会、第2次世界大戦期には、メリノール、ロスミニアン、サルヴァトリアンなどの宣教会が次々に拠点を築くことになります。

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 いっぽう、ドイツ・プロテスタントの最大教派であるルーテル教会も、1887年ダル・エス・サラームに宣教所を設立し、1893年にはキリマンジャロ周辺のチャガ民族の土地で宣教に当たります。それから約80年経った1970年のタンザニアには、ドイツのほか、アメリカやスカンジナビア半島からの17以上のルーテル派宣教団がひしめいています。

 付録はBarrettらが編纂したタンザニアの宗教人口の推移です。1982年と年代が古く、1980年および2000年のデータは「予測数値」となっていますが、おおよその実態をつかむ手掛かりにはなるかと思います。

付録 タンザニアの諸宗教人口   Barrett, David B., ed, 1982, World Christian Encyclopedia p.531
※網掛け帯欄は内訳を示す
※1980年と2000年は予測数値


 

しばらく更新が続きます。少々お待ちください。

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東アフリカってこんなところ 補足ページ 宗教と呪術 伝統的な信仰

◎元伝統医師ダウディ氏の治療、雨乞い、薬、そして祖霊への儀礼

    
 元伝統医師ダウディ(本名マヘンデカ・カキメ Mahendeka Kakime) 1931-2005 @e-kankanderi.com

●ダウディの個人歴

 本名をマヘンデカ・カキメという写真の男性は、タンザニア北西部のヴィクトリア湖に浮かぶウケレウェ島で、長年、伝統医業を行ってきました。
 彼は2002年に「今までの行いを悔い改め」キリスト教の洗礼を受けますが、彼のライフヒストリーは、東アフリカの信仰を知る上でも興味深いものでした。

 ダウディ(カキメ氏の洗礼名)は1931年にウケレウェ島で生まれ、2002年にキリスト教の洗礼を受けるまで、その仕事は一貫して「伝統の医業」でした。彼の肩書を日本語に訳すと、「祖霊医」、「土着医」、「伝統医」などがしっくりくるかもしれません。

 ダウディが伝統の医業にたずさわった主な要因は、医業が家族の生業だったことです。

 ダウディの両親は、ドイツ統治時代に生まれて結婚しましたが、父親は農業と同時に雨乞い師を、母親は、彼女の母親つまりダウディの祖母と同じく、伝統医業を行っていました。ダウディが伝統医業を始めたのも、15歳の時、母親の仕事を手伝って木の根を採掘したことなどがきっかけでした。

 その後彼はスンバワンガという地域に赴き、2人の大ワガンガ(大伝統医)のもとで5年間修業をしたのち、大ムガンガとして本格的にひとり立ちをします。
 ダウディの伝統医業の内容は、雨乞い、薬を調合して患者のさまざまな状況に対処することでした。

●ダウディの患者と治療

 ヴィクトリア湖のウケレウェ島に住んでいたダウディ(当時はこの洗礼名は使用していない)のもとには、治療あるいは占いのために人々が訪れてきました。
 彼らの状態や目的を大別すると以下のようになります。

 A. 呪医(ムチャウィ)に呪いをかけられた人
 憎しみ、妻を寝取る目的、金品を盗む目的のために、呪医を使って呪われたり、災いをもたらされたりした人が相談に訪れます。この呪いに対抗するのが伝統医ダウディの仕事です。呪医の呪いに対抗する手段として、ダウディは薬を使用しました。
 ダウディの弁によると、伝統医は呪うことはせず、呪いの行いをしても相手は呪医であるかで、基本的に伝統医は「患者」だけを相手にし、人を呪うことを目的に訪れた人の要求は断るということでした。

 B. 普通の病人
 訪れた「患者」を、呪いによるものではなく「普通の病気」だと見なした場合には、それを治療する薬を与えます。その場合、飲み薬あるいは塗り薬を処方したということでした。

 C. 夫あるいは男に縁を切られてしまった女たち
 これは不幸な病であり、彼女たちには「ほれ薬(恋愛の薬)」を処方したということでした。

 

●ダウディの雨乞い

 アフリカの雨乞いに関しては、過去から様々な報告・研究がありますが、ここではダウディが実際に行っていた雨乞いに関してのみ記述をします。

 ダウディは雨乞いの方法を雨乞い師である父親から継承しました。

 ダウディが雨乞いに用いたものは「雨石」です。この雨石は小粒の光沢のある石で、ダウディは赤、白、青の3色を用いていたということです。
 彼はこれまで7つの雨石を所有していましたが、これらを得るにあたっては夢でお告げがあり、このお告げに従い、野で雨石を見つけたと言います。しかしキリスト教の洗礼を受けるにあたって、この雨石すべてを返上してしまったということです。

 また、雨石を用いず、器に入れた雨乞い用の薬と井戸水だけを用いて、雨乞いを行うやり方もあるということです。
 その際、雨を祈願する対象は、ダウディの氏族チュマ(Chuma/Mchuma-Wachuma)の創造主である月です(後述 ※未掲載です。後日掲載予定です)。なぜ月のほうが創造主で太陽がその息子であるのかということについてダウディは、単に太陽に比べ月のほうが大きく見えたことによる、と語りました。

 雨石を使用する場合、川の水、薬、雨石を1、2粒、器の中に入れて祈願を行いますが、雨石を器の中に入れると雨が降り、これを取り出すと雨が止むといいます。
 過去には別の雨乞い師たちが、雨を降らせることに成功はしたものの、降りすぎた雨を止ませることはできず、村人たちに打ち殺されたことがあったと、ダウディは言います。
 ダウディ自身、雨乞いに呼ばれた時は、処方を行う前、村人によって両腕を後ろ手に縛られ、形だけにせよ、「雨を降らせ、なおかつ降り過ぎさせないように」できない場合は、命をもらうという宣誓を行ったことがあったといいます。

 また、雨乞いの器に関して、チュマの人々に伝えられている話があります。その昔、チュマの伝統医が雨乞い用の器を割った時、その力が流れ出て、カゴンド(Kagondo)湖ができました。カゴンドの水は多くの病人を癒しましたが、その後ドイツがその地を占領したため、チュマの人々はウケレウェに移ってきたという話です。

●ダウディの薬

 ダウディは、病人を治療するときも雨乞いを行うときも、「薬」を用います。

 研究者Akiikiによれば、かつて多くのアフリカ人にとっての「健康」とは、ある人とある人の関係(それは自然と超自然両方の場面で言える)の、本来あるべき状態を指すということです。この場合の「健康」とは、社会的、肉体的、霊的関係の平和と調和のもとで生活することを意味しています。
 人間にとっての薬とは、「聖」をもたらす役割を持っており、聖をもたらす行為は「薬を与える」と表現されます。
 アフリカ人にとって病とは、ある人の霊に別の霊が攻撃を与えることで、病は、攻撃を与える霊よりも強力な霊の薬によってのみ、抑えることができるといいます。
 @Byaruhanga-Akiiki, A.B.T., 1991, "The Theology of Medicine", Journal of African Religion and Philosophy Vol.2 No.1 pp.23-33 Kampala, The Child Press LTD.

 ダウディが実際に「治療」の場面において使用した薬は、それぞれに有効性を持つとされる「薬」です。
 薬は主に、木の根を採取し、それを乾かして砕き、粉にしたものでした。

 まず、ムチャウィ(呪医)に呪われた人に対しては、呪いの毒を消す、木の根から抽出した薬を使用します。そして病が治ったら、再びの呪いから守る薬を与えます。
 例えば、調合した薬を棚の上に置くかどこかに貼り付けます。これらの薬には、「もし再び呪医が来た場合には、地に倒れよ。呪医が自分の家にたどり着くころには病み、死ぬように」、あるいは「呪医がかけた呪いが、呪医自身に跳ね返るように」という呪文がかけられています。
 このような場面でのダウディの呪医に対する定義は、「人間には寿命があるが、呪医はそれを縮める者たちである」、というものでした。

 また、盗難にあった人がダウディのもとを相談に訪れた場合、彼は器に砂、薬、雨水を用意し、盗んだ者が雷に打たれるように祈願します。同様にして竜巻が起こるように祈願しますが、これは、たとえ盗人が盗んだ物を放棄しても、祈願ののちに、盗人は雷に打たれるか、竜巻に巻き込まれるかするようにということなのです。のちのち「自分の行為のために死んでしまった人がたくさんいた」と、ダウディは回想しています。

「普通の病気」の患者に対しては、主に木の根の薬を用いますが、ほれ薬の場合は、木の根の粉にバッタを乾かして粉にしたものを混ぜたり、ウサギの頭蓋骨をすりつぶして使用することもあったということです。ウサギは東アフリカで「賢いもの」とされているためだということでした。

 ちなみに別の伝統医は「ほれ薬」に関して、次のような処方を用いているといいます。彼が処方するほれ薬は4種類あり、1種類目は、粉末を水に混ぜて、自分の身体に浴びるもの。この時、伝統医から教えられた呪文を唱えます。2種類目は、ろうそくの炎に粉末をふりかけ、1種類目と同様、呪文を唱えるもの。3種類目は白い布、粉薬、油を使って、男性の邪心を燃やす目的を持つもの、4種類目は相手の飲食物、に混ぜるものです。4種類目は相手に食べさせるだけでなく、クリームに混ぜて、自分の手や顔、性器に塗っても効果があるというものでした。

 ダウディの場合、ほれ薬やほかの強い力を持つ薬を用意するときには、夜中に呪文を唱えながら、あるいは裸になって木の根を掘ったといいます。

 このような処方により、患者が治癒した場合、報酬は多い時で牛1頭、あるいは同額程度の金品だが、治癒しなかった場合は亡くなるので、報酬は得られるべくもない、というのがダウディの支払い方法でした。

 
 2013年以降もまだ各地でみられるハーブ売り 写真は2007年頃       伝統医の診療所 2005頃 2010年くらいに伝統医が死去し撤去

 
続きます。少々お待ちください。

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