東アフリカってこんなところ
@East-Africa-kankanderi

「東アフリカ」といっても、範囲付けの目的や状況によって適応国が変化します。ここではざっくりとした東アフリカの印象と、ところによってはかなり局地的、時代も限定的な東アフリカ像をお送りいたしたいと思います。こちらを手掛かりのほんのひとつとして、皆様の東アフリカを構築していただけましたら幸いです。しばらく作成・更新が続きます。
 老婆心ながら中・高校生さんや大学学部生さんなどへのお願い。レポート等を書かれる場合のインターネット文丸引きは、誤謬や著作権抵触を含んでいる場合がありますので避け、記名の印刷物や出所のはっきりしているネット資料、または購入した書籍を参考文献にされることをお勧めいたします。なにとぞのご理解お願い申し上げます。


ご旅行なさるには





マラリア治療薬一例
(パッケージデザインは都度変化)

パスポート・ヴィザ・ 航空券・サファリ・旅行社等  ヴィザは必須です。各大使館にお問い合わせください。現地空港で観光ヴィザが取れる国もありますが、時期により長蛇の列になる場合がありますので、事前に取得することをお勧めします。
 航空券やサファリは、アフリカ全般および東アフリカの旅行に特化している道祖神やJATAツアーなどのほか、さまざまな旅行会社で扱っています。現地の旅行会社もたくさんあります。
 飛行機はヨーロッパ周りなど、様々なルートがありますが、現在ではアラビア半島まわり(ドバイやドーハ経由)が一般的となっています(〜2013)。日本からの直行便はなく、どこかで1回以上乗り換えをしなくてはならず、片道1日半から2日程度必要となります。
予防接種・服薬  厚生労働省検疫所のWebサイトから感染症情報センターなど、感染症に特化する国内の機関を検索できます。
 国立感染症予防センターや外務省渡航関連情報等も確認することをお勧めします。
 長期滞在の場合は、A・B型肝炎、破傷風、狂犬病などの接種を強くお勧めします。複数回接種ですので、接種時期・期間の計画が必要となります。
 旅行の場合、黄熱病の予防接種が義務化されている地域と期間(義務化されていない時期もありました)がほとんどですので、事前接種が必要です。現地空港でのイエローカードの提示はほとんどありませんが、携帯は必要です。
 マラリア汚染地域では、マラリア(ハマダラ蚊媒介)予防薬服用の選択もありますが、白色系の手足を覆う服を着用し、罹患した場合は、現地の薬局で副作用の少ない治療薬を購入・服用したり、医療機関での注射等で症状は治まります。
持ち物  通信機器は各会社にお問い合わせください。無線LAN(Wi-Fi)等の現地での回線契約も可能ですが、安いモバイルフォン(カード式)もたくさん出回っています。購入時、身分証明書(パスポート等)が必要な場合もありました(2012年時)。
 そのほか、都市を通過、あるいは滞在するなら、現地スーパーマーケット等であらゆるものが手に入ります。米、カップラーメン、酒類(種類多し)、生理用品、飲料水など、清潔なものが手に入ります。
 必需品は虫よけスプレー、持って行って便利なものはビーチサンダル(現地購入もできます)、蚊取り線香(現地でも手に入りますが、日本のものは折れず使い勝手が良い)などです。場所によっては懐中電灯などが必要な場合もあるでしょう。帽子や傘、洗濯物干しひもなどは適宜。田舎の畑地などでは「水田用長靴」が大変に有用なこともありました。高地ではセーター、オーバー類がなければ過ごせません。
安全   ご自身の基盤居住以外の文化圏や社会に赴くときは、事前の情報収集、心構えは必須事項ですが、細心の用心をしていたら思ったほど危険でもなかった、あるいはその逆という場合は多々あります。
 基本は、夜間はできるだけ不要な外出はしない(特に暗がりは避ける)、出掛ける先については現地の人のアドヴァイスに従う、自動車には注意を払う、人前で札束を切らない、現地の生活レヴェルに溶け込む、突発的な暴動などが起こった場合は安全そうな場所にすぐさま避難する、など一般的なことと思われます。
 ナイロビなどでもナイトライフを楽しむ旅行者は多数おりますし、ダル・エス・サラームではそれほどの恐怖感を持たずに夜間外出もできますが、注意は怠らないほうがよいでしょう。
 また、河川や湖などでの水浴(手足などを浸ける行為も)は、住血吸虫の危険があるので避けたほうが良いです。動物に手を出すのは非常に危険な行為です。またダニやノミ、アリも人体に被害を及ぼす場合がありますので、足元・足首などは隠すことをお勧めします。
 海岸では泳げる場所が暗黙のうちに限定されていることが多いので、現地の方々に確認したほうがよいでしょう。また汚物などの海水汚染もありますので、やたらに手足を浸けたりするのは避けたほうがよいでしょう。
 事例としては、政府公的派遣などの場合は、パーティの後で使用人の手引きで強盗が入り縛り上げられ家財すべてを持っていかれた、ゲートで待ち伏せされ銃撃されたなどのほか、事例に枚挙にいとまがないようですが、一般としては、市場で現地の方と歩いていたら突然襲われ切り付けられ重傷を負ったほか、かたことで詐欺にあうなど、落とし穴はたくさんあります。本欄記入者は過去に東アフリカにおいて、米大使館を標的にした爆破テロに遭遇したことがありますが、運よく被害にあわなかったというだけでしょう。



地理・自然

Atlasi kwa Shule za Msingi Tanzania p.44
Educational Books Publishers LTD 第3版2005年

 東アフリカ3国ウガンダ・ケニア・タンザニアを例に、東側(地図右側)海岸地方が海抜0〜200m(濃緑)から、アフリカ大地溝帯周辺の海抜2000〜4000m(濃だいだい)の山脈に至るまで、海抜200〜500m(薄緑)、海抜1000〜2000m(だいだい色)の地域が広がる。



Atlasi kwa Shule za Msingi Tanzania p.45
Educational Books Publishers LTD 第3版2005年

 東アフリカ3国を例に、中央とウガンダ、タンザニアの左側国境にアフリカ大地溝帯が走る。地溝帯の中には、Udzungwa、Mau、Nyandarua、Livingstone、Kipengere、Karisimboなどの山や山脈と、Nyasa(Malawi)、Tanganyika、Turkanaなどの湖が存在する。
 東アフリカを広義で定義する場合、スーダン、エチオピア、ジブチ、ソマリア、ケニア、ウガンダ、ルワンダ、ブルンジの9ヶ国が含まれます。しかし地形(位置)による分類や歴史的分類等、東アフリカといってもこの9ヶ国をひとくくりにしない場合もあります。

 東アフリカの気候は、アフリカ大地溝帯に関係する山脈や湖などの地形の影響により複雑です。狭い海岸部の平野のヒンターランドとして高原が広がっています。高度による気温差は激しく、たとえば同じ赤道直下でも、ケニア山(5199m/5200m)周辺とソマリア海岸地方ではかなりの温度差があります。海岸地方の年平均気温を25℃から30℃として設定すると、1000mにつき5〜6℃の気温の低下があるとされています。東アフリカにおいては、温度と高度の相関関係が著しいと言えます。

 上記のアフリカ大地溝帯とは、アフリカ東部に南北に走る帯状の断層です。2列の正断層が陥没し、この中に火山や湖が多く存在するため、多様な動植物が存在します。東アフリカの大地溝帯は幅が平均50〜100kmあり、長さが6000km以上に及ぶとされています。

しばらく作成・更新が続きます。どうかお待ちください。


日本語参考文献

地域研究シリーズ11
アフリカ T
吉田昌夫 編
アジア経済研究所
1991年初版 
 


歴史

右項目目次

●人類誕生の舞台
●オマーン・アラブの東アフリカ進出まで
●奴隷貿易
●ヨーロッパ人探検家たちとキリスト教宣教団
●ヨーロッパ列強によるアフリカ大陸分割と植民統治の時代
●ヨーロッパ列強によるアフリカ大陸分割と植民統治の時代
・ベルリン会議
●分割と植民地化への初期抵抗運動
●ヨーロッパ列強の東アフリカ初期統治形態(第1次世界大戦前とドイツ敗北まで)
・ドイツ領東アフリカ(現タンザニア大陸部、ルワンダ王国、ブルンジ王国など)
・イギリス保護領東アフリカ(現ケニア、ブガンダ王国など)
・語彙「ホワイト・ハイランド」
・第1次世界大戦中の東アフリカ
●植民統治下の東アフリカ
・プランテーション作物
・植民統治下の東アフリカの社会的変化
・都市の成立 ケニアのナイロビとタンザニアのダル・エス・サラームを例に

以下、更新が続きます。












































セイド(セイード)・サイド像
 アフリカ大陸全土あるいは東アフリカ地域だけをとってみても、歴史の大きなターニングポイントは存在します。アフリカ大陸でも、長い年月の間に多くの人の移動が起こり、人とことば、あるいは社会の在り方の消滅や混合が繰り返されてきたといえます。


●人類誕生の舞台のひとつ

 東アフリカのタンザニアにはルイス・リーキー博士らが約180万年前の人類化石を見つけた「オルドバイ渓谷」や、約350万年前の人類(アファール猿人)の足跡化石が見つかった「ラエトリ」があります。
 オルドバイ渓谷はタンザニアのセレンゲティの南東にある渓谷で、1959年にリーキー夫妻が地層の第1層から猿人のほぼ完全な頭蓋骨を発掘しました。夫妻はこの化石に、「東アフリカのヒト」という意味の「ジンジャントロプス・ボイセイ」という名をつけました。この発見をもとに、東アフリカ大地溝帯に沿って様々な調査が進展し、初期人類研究が飛躍的に進んでいったといわれています。


リーキー博士と頭蓋骨 Educational Books Publishers LTD


●オマーン・アラブの東アフリカへの進出まで

 西暦1000年前後に、農耕や金の取引を行っていたサハラ南縁のスーダン・サヘル地域ではいわゆる「文明が栄え」、交易路を支配する集団に権力が集中し、王国が成立していったと考えられています。
 黄金と北アフリカに入ってきたアラブ商人との結びつきを構造基盤とする王国を「スーダン型」としますが、アフリカ大陸の内部に小さなエスニック集団として生まれたものが、アラブやオリエントといった外部の世界と接触することで、包括的な組織になっていったという「王国成立の特徴」は、ウガンダ(ブガンダ王国)などの東アフリカの王国にも見られました。
 以下では、西欧列強が東アフリカを含むアフリカ大陸を分割・植民統治するまでの、アラブによる東アフリカの占領・統治や奴隷貿易までを表にしてあらわします。
西暦730年頃  東アフリカの海岸地域に、アラブの居住地が見られるようになる
15世紀〜18世  ナイロティック(ナイル語系:現在のルオ語、マサイ語などを含む、東スーダン語系の言語グループ)の人々が、現在のウガンダやケニアに移動してくる 
※マサイのケニア地域侵入は1675年頃
 西暦1417〜19年 中国の艦隊が東アフリカ沿岸に到達 
 西暦1498年 バスコ・ダ・ガマが東アフリカ沿岸を通過
 西暦1505年 ポルトガルが東アフリカ海岸地方のモンバサとキルワを占領
 西暦1635年前後 ゴンダールがエチオピアの首都となり、ポルトガルの宣教団がエチオピアから追放される
 17世紀中ごろ ブガンダ王国伸張
 17世紀中ごろ〜後期 1652年 オマーン・アラブがザンジバルのポルトガル人を攻撃
1660年 オマーン・アラブがポルトガル人占領のモンバサを攻撃
1698年 オマーン・アラブがモンバサを占領(ポルトガルの完全撤退は1729年)
「アフリカ現代史U東アフリカ」 吉田昌夫 山川出版社 第2版1990年 付録pp.16-17 を参考に


●奴隷貿易 →奴隷貿易についてもう少し読む(補足ページ) 

 サハラ以南のアフリカでは、15世紀中ごろにポルトガルによって本格化した奴隷貿易が、西アフリカを皮切りに、18世紀には東アフリカへも波及してきます。

 東アフリカにおける奴隷貿易の活発化は、18世紀中ごろ、フランスがモーリシャス周辺のさとうきびプランテーションに、またポルトガルもブラジルに送る奴隷を必要としたことが契機として挙げられます。
 1800年代初頭には、イギリスもフランスも西アフリカにおける奴隷を禁止したため、それ以降東アフリカに貿易の軸が移ってきました。

 いっぽうアラブとのかかわりとしては、7世紀末頃までは東アフリカ沿岸は、外からの勢力の関心外で、オマーンからのイスラム教シーア派の人々や、シラジからのスンニ派の人々が流民として訪れる程度でした。

 19世紀初めには、東アフリカのインド洋沿岸一帯には、アラブやスワヒリ人の居住地が点在していましたが、これらの人々は、インド洋沿岸との貿易に乗り出していた内陸のブガンダ王国などの、貿易の仲介役となっていました。この頃、東アフリカには綿花が入るようになり、アラブの影響を受けた長衣などが着用されるようになっています。
 同時期、マスカットの領主セイド・サイドがザンジバル島を本拠地として東アフリカ沿岸地域貿易を活発化させていきます。この時ひらかれたザンジバル島のクローブプランテーションや、またオマーンやイラクにも、東アフリカ内陸からの人々が奴隷として送り出されていきました。

  
アラブ風長衣の着用                 奴隷として送り出されるアフリカ大陸住民
"Historia : Shule za Msingi, Jamii za Watanzania hadi mwaka 1880",Mbwiliza J.F.他,Taasisi ya Elimu Dar es Salaam, 初版1986年(絶版)左p.55 右p.73


●ヨーロッパ人探検家たちとキリスト教宣教団

 東アフリカ内陸部にヨーロッパ人たちが訪れはじめたのは1800年代前半です。彼らはキリスト教の伝道師たちでした。カギとなる人物たちを表でまとめました。

クラップとレープマン 両者ともドイツ人。
イギリスの宣教団体「チャーチ・ミッショナリー・ソサエティの一員。
クラップはエチオピアからケニアのモンバサにわたる。
レープマン1846年モンバサに到着。クラップとともに伝道。

1848年、レープマン、ヨーロッパ人として初めてキリマンジャロ山を見る。
1849年、クラップ、ケニア山を見る。
両者旅行記を執筆。
バートンとスピーク
ベイカー夫妻

ジョン・スピーク 
  イギリスの王立地理学協会が、ナイル川の源流を突き止めるため、バートンとスピークという二人の探検家を東アフリカに派遣。

 曲折を経て、スピークはブガンダ王国に入り、ムテサ王の客人となる。
 1862年、スピーク、ナイル川がビクトリア湖より流出していることを確認。

 スピーク、エジプトより南下のベイカー夫妻と会う。
 この後、ベイカー夫妻は、のちにアルバート湖と名付ける湖に到達し、この湖もナイルに通じていることを報告。

 イギリスにて、スピーク、銃事故で死亡。
 
リビングストン
  ロンドン伝道協会の伝道師
 1841年南部アフリカに派遣される。その後、1857年よりザンベジ川を渡る内陸部ルートを探検。現マラウィとタンザニアの国境ニャサ湖に到達。

 1866年よりミキンダニから、ニャサ湖、タンガニーカ湖のウジジへ到達(1869年)。その後2年間の探索の間に、イギリスでは消息不明と報じられる。
 ウジジで、捜索の新聞記者スタンリーによって「発見」される。

 タンザニア内陸部で死去。遺体は従者によって海岸部バガモヨまで運ばれ、そこから本国に送られたとされている。
スタンリー   イギリス人新聞記者。
 アメリカのヘラルド紙企画の「リビングストン捜索」の任を負い、1871年ウジジでリビングストンに対面し、著作等で一躍有名となる。

 1874年の第2回目の遠征で、ブガンダ王国へのキリスト教宣教団への呼び水を作る。スタンリーの記事により、多くのキリスト教宣教団がブガンダ王国を目指すようになる。

 1877年、コンゴ川全行程を下り、河口に到達。この報告を受け、そののちベルギーがコンゴ・キンシャサ(ザイール)の植民を開始していく。

 
 多くの奴隷が内陸から連れてこられ、ここから直接、またザンジバル島を経由して、各地へ送り出されたというバガモヨです。1868年に建設された教会(写真左)のそばに、1872年に建立されたお堂があります。このお堂に、内陸部で死亡したリビングストンが、防腐を施された状態でいったん安置され、ここから本国へ送り出された(1874年)ことを示す碑があります。
 写真右は、聖堂から海岸へ直線に続くマンゴー林で、この林を進んで行くと、海岸に大きな十字架が建てられています。
 奴隷貿易から植民地時代へと移行した東アフリカの歴史遺産です。


●ヨーロッパ列強によるアフリカ大陸分割と植民統治の時代

 ヨーロッパ列強のアフリカ大陸の植民地化のおもたる要因は、産業革命を成し遂げたヨーロッパの工業製品輸出先の確保や、農産物の通商拡大、そしてそれに伴うヨーロッパの国々の間での権益確保のせめぎ合いにあったと言えます。

 以下に、ヨーロッパ列強がアフリカ大陸を分割・統治するまでを、東アフリカの出来事を中心に表にまとめます。

19世紀中頃   すでに産業革命を終え、通商拡大路線をとっていたイギリスが、東アフリカのザンジバル島に領事を置く(1841年)。
 イギリスとフランスが共同宣言を出し、ザンジバル島をイギリスの、マダガスカル島をフランスの勢力圏とすることを認めあう(1862年)。
 イギリスの圧力により、ザンジバル周辺海上の奴隷貿易禁止令が出される(1873年)。
 1882年  エジプト副王イスマイールの政策失敗のなか、アジア・アフリカ進出の課題となっていたエジプトをイギリスが事実上占領する。
 1884年   当初植民地獲得に反対だったドイツのビスマルク宰相が政策を転換し、南西アフリカを保護領とする。
 ドイツはカメルーンとトーゴを併合し、フランスとともにコンゴの権益を主張するポルトガルをけん制。
 コンゴをめぐる問題を主要議題として、ビスマルクの提唱でベルリン会議が開かれる。

 1884年11月に開かれ、1885年2月に閉会した「ベルリン会議」において、アフリカ大陸の住民たち自身が知らない、大陸分割の取り決めが行われることになりました。

●ベルリン会議
 コンゴ川盆地一帯を植民地としたいベルギーなど、ヨーロッパの国々が1884年から1885年までにベルリンで開いた会議を指します。
 以下で、ベルリン会議において取り決められた内容を列挙します。
 
 ・コンゴ統治はベルギーが行うこと。
 ・イギリスはアフリカ大陸のインド洋から大西洋岸までを自由貿易地域とすること。
 ・ベルリン協定、すなわちアフリカ分割の原則を決議採択。

 上記の「ベルリン協定」とは、以下の事柄を指します。
 ・ヨーロッパ(のなかの国々)は、アフリカ沿岸部で他国の権益のない場所を併合する自由を持つ。
 ・併合した場所は他国に通告し、調整は国際会議で行う。
 ・併合が認められたのち、その地域で実態を伴った統治を行うことができる。

 アフリカ大陸の国境が、地図上で直線になっている場合の多くは、このベルリン会議における「卓上」での大陸分割が元となっています。


●分割と植民地化への初期抵抗運動

 19世紀末から20世紀初頭においては、ヨーロッパ人のアフリカ大陸植民地化に対して、アフリカ人住民の抵抗運動が起こり始めます。
 実際にはさまざまな地域で、必要に応じて連携なく起こっていたため、大半がその都度ヨーロッパ軍に鎮圧されますが、組織化への問題提起や、ヨーロッパの植民地政策の在り方など、その後の歴史に影響を与えていったことは確かであると言えます。

抵抗運動例   内   容  影  響
マハディの反乱  ・イギリスがエジプトを占領する以前の、スーダンにおけるエジプト支配への抵抗。
・エジプト政府による重税への、牛牧民たちの反乱から始まる。
・マハディ(救世主)を名乗るムハンマド・アハマッド率いる勢力が、イギリス人将校率いるエジプト軍を壊滅させる(ハルトゥームの戦い)。 
・スーダン人による行政機構の整備がなされた時期として評価される。 
 アドワの戦い ・ヨーロッパ列強がアフリカ大陸を勢力下におさめる過程で生じた、エチオピア軍による対イタリア抵抗戦争。 
・アドワでの戦いに勝利したエチオピアは、植民地化をまぬがれる。
 ・勢力抗争に刺激されたイギリスが、スーダンへ進出する原因を作る。
・この後イギリスはマハディーの軍を壊滅させる。
 アブシリの反乱 ・ザンジバルのアラブ人アブシリによる、現タンザニア大陸部における対ドイツ抵抗運動。
1888年8月−1889年11月 
 ・住民の抵抗運動に対し、ヨーロッパ列強が連携をする。
・ドイツは、ドイツ領東アフリカを直接統治することになっていく。
 へへ民族ムクワワの抵抗 ・1888年以前より、現タンザニア大陸部では、首長ムクワワ率いるへへ民族の抵抗が頻発。
・1898年6月、ムクワワ、ゲリラ闘争の末、ドイツ兵に襲われる際自殺。 
 ・ドイツ植民地政府は、へへ民族に対し、罰金を課す。
 サイド・ムハンマドの反乱 ・サイド・ムハンマド率いるイスラム教徒一派が、イギリス領ソマリランドにおいて反乱を起こす。
・1899年宣戦、以降約20年間にわたって抵抗続く。1920年、ムハンマド病死。 
 ・ソマリア民族主義の精神的支柱となる。
 マジマジの反乱 ・ドイツが行った現タンザニア大陸南部における、綿花の強制的栽培に対する抵抗運動。
・伝統医の見つけた魔法の水(マジ)を飲むと、敵の弾丸に当たっても死なないという言説と儀式によって、抵抗運動は広範囲に広がる。
・反乱者、機関銃で打たれ壊滅。ドイツの焦土作戦により、穀物消失ののち、飢饉と人口減にみまわれる。
 ・ドイツに植民地政策の再検討を迫る出来事となる。


●ヨーロッパ列強の東アフリカ初期統治形態(第1次世界大戦前とドイツ敗北まで)

●ドイツ領東アフリカ(現タンザニア大陸部、ルワンダ王国、ブルンジ王国など)
 ドイツの東アフリカ統治形態は、以下のようないつくかの段階を経て、ドイツが第1次世界大戦で敗北するまで続きます。

 @ 各地の首長と条約を結び義務を負わせる。
 A ドイツ軍隊駐屯の軍人支配。
 B 民間ドイツ人が長官となり、行政と司法を担う。
   一部地域では、首長の後ろにドイツ人が立つというような間接統治方式をとる。

 この間「家屋税」が導入され、住民は金納か賦役の義務が課せられますが、徴収には首長があたり、手数料を受け取っていました。この家屋税はのちに「人頭税」となります。

●イギリス保護領東アフリカ(現ケニア、ブガンダ王国など)
 イギリスは、1894年に保護領化したウガンダにおいて、ブガンダ王国の統治制度を導入し、ガンダ人首長を統治官とする間接統治を導入しました。その後1900年に結ばれた「ブガンダ(ウガンダ)協定」は、東アフリカのブガンダ王国社会に大きな影響を与えます。

 ブガンダ(ウガンダ)協定 : 1900年にイギリスとブガンダ王国で取り交わされたもの。
                ブガンダ王国の王制は存続するが、イギリスの支配統治下となる。
                家屋税導入。
                土地の私有制導入。

 以降、海岸地域モンバサからウガンダへ、鉄道が敷設され、白人入植が奨励されると、現ケニアの首都ナイロビ周辺から西北へ、「ホワイト・ハイランド」が創設されていきます。

*語彙「ホワイト・ハイランド」:現ケニアのモンバサとアフリカ大地溝帯の間の地域をイギリスが植民地化したのち、いわゆる「白人の入植」がすすめられた。現ケニアの首都ナイロビは、ウガンダ鉄道建設の際に鉄道本社所在地としてつくられた町であったが、この一帯が「白人に借地権を与えられた土地には非白人の占有を認めない」と定められた「ホワイト・ハイランド」となる。

第1次世界大戦中の東アフリカ
 植民地住民である東アフリカの人々は、ヨーロッパ同士の戦争だった第1次世界大戦に巻き込まれます。アフリカ大陸においても、ヨーロッパで行われた戦争同様、宗主国の領域のアフリカ住民が、現地で互いに戦わなくてはならなくなりました。

 ドイツ領東アフリカ(現タンザニア大陸部・現ルワンダ・現ブルンジ)においては、1914年の開戦から、ドイツ軍のフォルベック総司令官が、東アフリカに上陸したイギリスやベルギーの軍相手に戦闘を繰り広げましたが、次第に南へと後退させられていきます。
   
ドイツ領東アフリカ軍総司令官フォルベック(左)とドイツ領東アフリカに侵攻する連合軍(六角形が連合軍)
"Historia : Shule za Msingi, Jamii za Watanzania tangu mwaka 1880",Mbwiliza J.F.他,Taasisi ya Elimu Dar es Salaam, 初版1984年(絶版)p.51(左)、p.50(右)

 第1次世界大戦に巻き込まれたことによって、東アフリカでは住民に多くの死傷者を出し、破壊された地域は疲弊していきました。
 敗戦国となったドイツの植民地の現ルワンダと現ブルンジはベルギー領に、現タンザニア大陸部はイギリス領に分割され、この時ドイツ領東アフリカの現タンザニア大陸部は、「タンガニーカ」と呼ばれるようになりました。


植民統治下の東アフリカ

 第1次世界大戦後、敗戦国ドイツの植民地は、国際連盟の委任統治領となることが定められました。
 1921年にはルアンダ(現ルワンダ)とウルンジ(現ブルンジ)がベルギー領に、残りの現ケニア、現ウガンダや現タンザニア大陸部はイギリスの統治下に移りました。このイギリス統治下の東アフリカ保護領は、海岸地域を除いて直轄植民地となり、1922年にはシリング貨が導入されて現在に至ります。
 植民地下におかれた東アフリカは、いやおうなく貨幣経済に巻き込まれていきますが、以下で、植民地政府がとった東アフリカにおける植民地経営の方式を、農業生産物を例に概観していきます。

 植民地化される以前の東アフリカの農業は、生存に必要な分だけを耕作するというのもでした。植民地化以降、さまざまな形によって輸出向けの作物が生産されていくようになります。

◎綿花 : 1900年代初頭、綿花需要国であったイギリスにおいて、植民地における綿作が奨励される。
      ウガンダにおいて綿作が発展。
      第1次世界大戦後はインドや日本も原綿を求めて東アフリカへ買い付けに来るようになる。

◎コーヒー : 東アフリカでは植民地化以後、商品作物としてのコーヒー栽培が始まる。
   ・ ケニアでは1890年代にミッションによってコーヒーが導入されて以来、ナイロビの、おもに白人入植者
    の農場において栽培がなされた。ケニアにおいては事実上、アフリカ人にコーヒーの栽培許可は与えられ
    なかった(許可されたのは1950年代以降)。
   ・ タンガニーカでは、キリマンジャロ山周辺でヨーロッパ人による栽培が始まっていたが、ケニアとは異
    なりアフリカ人、おもにチャガ民族の人々が小農方式で栽培を始めることができた。
   ・ ウガンダにおいては、入植者に続いて、アフリカ人によるコーヒー栽培もおこなわれた。しかし当初は
    綿花に比べてその輸出額は小さく、コーヒーが重要な輸出品となるのは第2次世界大戦後である。
 
 現在でもコーヒーは換金作物として各地で小規模〜中規模に栽培されています。写真はタンザニア南部高地。

◎サイザル麻 : ロープや袋などに使用されるサイザル麻は、東アフリカではドイツ東アフリカ会社によって
        1893年に導入された。
         サイザル麻は、暑く乾燥した気候に適しており、東アフリカにおいてはタンザニア大陸部と、
        生産量は少ないもののケニアでも、ヨーロッパの商社などによる会社組織の大規模農場でプラン
        テーション栽培が行われた。

◎紅茶 : イギリスの紅茶の大会社がプランテーション経営を行ったことが、東アフリカにおける紅茶生産の発     達のきっかけだったが、現在でもアフリカ人経営などによる紅茶生産は活発である。

●植民統治下の東アフリカの社会的変化

 1900年代初頭から採用された、東アフリカの植民地政府によるアフリカ人への家屋税や人頭税などの課税に対し、それまで自給自足的な生活を営み、生活するには困らなかったアフリカ人たちは、現金を獲得する必要に迫られていきました。
 換金作物栽培を許された地域では作物を売って現金を調達することもできましたが、ケニアなど換金作物の栽培を禁じられたところでは、労働者として現金を得るほかなくなりました。それはプランテーション農場で人手を必要としていた入植者にとって都合のよいことでもありました。

 ただし、プランテーション農場などへの出稼ぎ労働者の労働実態は、場所によって差異があり、出稼ぎが常態化するところから一時的なものというように、政府や土地の制度のあり方によっても、一概に強制力を帯びたものであったともいえません。

◎都市の成立 ケニアのナイロビとタンザニアのダル・エス・サラームを例に

ケニアのナイロビ
 ナイロビは、1899年に、ウガンダ鉄道建設の際、原野の真ん中に鉄道本社所在地としてつくられた町です(アフリカ現代史U東アフリカ 吉田昌夫 山川出版社1978年初版 p.122)。イギリス統治下の東アフリカ保護領の首都はモンバサでしたが、1905年にナイロビに移り、冷涼な「ホワイト・ハイランド(上記語彙「ホワイト・ハイランド」参照)」に含まれる場所に位置していたこの都市では、以降、人口が急増していきました。

 現在でもその側面が残るように、都市として発展していったその当時からナイロビでは人種別の区画がなされていきました。
 白人居住区:ナイロビ西部。ホテルやショッピングセンターが建設されていく。
 インド人居住区:ナイロビ中心部の、後に商業地区として発展していく地区。
 アフリカ人居住区:東側の地区。植民統治下では人種的な隔離がなされる。

タンザニアのダル・エス・サラーム
 タンザニアのダル・エス・サラームの都市としての発展は、まずは補足ページへどうぞ!


しばらく作成・更新が続きます。どうかお待ちください。



政治・経済・国際関係





●東アフリカの経済(歴史的推移より)

 アフリカ大陸の経済も、地球上におけるどの地域にも起こっていると同様に、常に変化しています。

●近代以前の東アフリカの市場
 アフリカ大陸において、古来からほかの大陸地域と接触が盛んであったのが、インド洋に面した東アフリカです。
 東アフリカが面したインド洋では、半年ごとに交代する季節風が吹いており(11月から3月にかけては、アジアから吹く北東風、4月から10月までは逆方向に吹く南西風)、この風に乗って、商人を含めた人々が、船で来ては戻っていきました。紀元前より、アラビア半島、ヨーロッパ南部、ペルシア、インド、中国などと交易したことが知られています。

 東アフリカの人々が輸入したものとして、織物、香辛料、陶磁器、武器などがあげられ、輸出品としては、象牙、金、奴隷が代表的なものとしてあげられます。

 グレアム・コナーという研究者は、アフリカの諸文明が外洋との交易によって生成されたというより、内的な要因、すなわち農耕、牧畜と高度な製鉄技術にみられるような、内部における穀物、塩や資源の取り引きにより支配権が確立し、いわゆる「文明」が確立されていったと論じています。

●大航海時代の東アフリカ経済と奴隷貿易の経済的側面・負の側面
「奴隷貿易は単純な交易ではなく、人間という最も重要な生産要素の略奪的移転という側面を有している」と研究者峯陽一は述べています(「現代アフリカと開発経済学」p.18 初版1999年 日本評論社)。
 この負の遺産が、20世紀後半までのアフリカ大陸の、低開発の歴史的根源のひとつになったということは、アフリカ研究のなかでも共有されてきた事柄です。

 大航海時代のヨーロッパは、アフリカ大陸への航海の目的の一つに、「金」を探しあてることをあげていましたが、アフリカ大陸とアメリカ大陸に到達した彼らは、物品と奴隷の貿易ルートを作り上げていくことになります。

 以下で参考に、東アフリカとは地理的に反対側の「大西洋三角貿易」を示してみます。
 ○ヨーロッパの奴隷貿易商人:[ヨーロッパで綿製品、鉄砲などを購入]→[アフリカ西側海岸地方で奴隷と交換]→[中米・南米に奴隷を輸送。ヨーロッパ人がプランテーション経営する農園に奴隷を供給。産品の砂糖、コーヒーなどを買い付け]→[ヨーロッパで売り、利益を得る]

 この西海岸の三角貿易は18世紀に最盛期を迎えますが、前後約4世紀にわたり、アフリカ大陸の奴隷貿易が盛んだった地域では、特定の有力者と仲介人が富み、敵対する者同士がお互いを奴隷として売り、ヨーロッパとの保守的な関係が構築されていくという、ゆがんだ貿易が続いたことになります。

●奴隷貿易廃止の経済的根拠
 さて、前出の研究者峰によると、18世紀から19世紀にかけて、奴隷貿易の中心であったイギリスとフランスで廃止論が沸き上がりますが、これには経済的根拠があるということです。
 イギリスが行っていた中南米の砂糖プランテーションにおいて、非イギリス植民地の生産量増加のため、供給過剰が発生しますが、これに対応するためには、安価であった労働力としての奴隷供給を断つことでした。奴隷供給を握っていたのはイギリス人商人だったので、イギリスは奴隷貿易禁止を実行して行くこととなります。
 当時のキリスト教会が、非人道的な奴隷貿易廃止を主導はしましたが、実際においては経済という要素も、禁止・廃止を現実化するために作用したと言えます。

以降、作成・更新が続きます。どうかお待ちください。


●植民地からの独立以降より西暦2000年以前までの東アフリカ経済
 以下では植民地化とその後の1960年代に集中したアフリカ諸国の独立以降の東アフリカの経済を、時系列に概観していきたいと思います。
 まず以下に、アフリカ大陸のおもな国々の独立年月日を一覧表にします(国によっては解釈や政策により、年月日変更もありますので、詳細は各国ホームページ等で再確認をお願いいたします。また政変の場合国名変更がありますので、下記では「共和国」、「王国」等は入れてありません)。その中で緑色の枠が、さまざまな枠組みで用いられるときに「東アフリカ」のカテゴリーに入る国々です。(以降、「政治」欄へ移行予定です。)
 アルジェリア 1962年7月3日
 アンゴラ 1975年11月11日
 ウガンダ 1962年10月9日 
 エジプト 1922年(名目上)
エチオピア   
エリトリア   
ブルキナ・ファソ (旧オートボルタ:1960年8月5日)
ガーナ  1957年3月6日 
カーポベルデ 1975年7月5日 
ガボン  1960年8月17日 
カメルーン  1960年1月1日 (東カメルーン)
1961年10月1日(西カメルーン)
ガンビア  1965年4月18日 
ギニア 1958年10月2日 
ギニアビサウ 1973年9月23日 
ケニア  1963年12月12日
コートジボワール  1960年8月7日 
コモロ  1975年7月6日 
コンゴ(ブラザビル)  1960年8月15日 
コンゴ(キンシャサ)  1960年6月30日 
サントメ・プリンシペ  1975年7月12日 
ザンビア  1964年10月24日 
シエラレオネ  1961年4月27日 
ジプチ  1977年6月27日 
ジンバブエ  1980年 
スーダン  1956年1月 
スワジランド  1968年9月6日 
セイシェル  1976年6月29日 
赤道ギニア  1968年10月12日 
セネガル  1960年8月20日 
ソマリア  1960年7月1日
タンザニア  1961年12月9日(大陸部) 
チャド  1960年8月11日 
中央アフリカ  1960年8月13日 
チュニジア  1956年3月20日 
トーゴ  1960年4月27日 
ナイジェリア  1960年10月1日 
ナミビア   
ニジェール  1960年8月3日 
ブルンディ  1962年7月1日 
ブルキナファソ   
ベナン  1960年8月1日 
ボツワナ  1966年9月30日 
マダガスカル  1960年6月26日 
マラウイ  1964年7月6日 
マリ  1960年9月22日 
南アフリカ  1910年連邦成立 1961年5月31日共和国成立 
モーリシャス  1968年3月12日 
モーリタニア  1960年11月28日 
モザンビーク  1975年6月25日 
モロッコ  1956年3月2日 
リビア  1951年12月24日  
リベリア  1947年7月26日 
ルワンダ  1962年7月1日 
レソト  1966年10月4日 

しばらく作成・更新が続きます。どうかお待ちください。



公衆衛生・保健・医療 

側溝(ドブ)をバケツでひとすくいすると、脳炎、黄熱、マラリアなどを媒介する蚊の幼虫のボウフラが、無数に捕獲できた。2007年 @e-kankanderi



渡航前準備、あるいは帰国後体調がおかしいなと感じたらスグ↓
帰国後発症した場合は、医療機関で「海外に行っていたこと」を告げてください。

●厚生労働省検疫所(海外渡航者のための感染症情報)ホームページ
●外務省海外安全ホームページ 感染症関連情報
●国立感染症研究所 感染症情報センターホームページ 疾患別情報


現地で診察・治療を受けるときは

 訪れた先々には、小さな診療所から国立の大きな病院、私立病院の数々がありますが、各国の日本人会などのWebサイトを検索したうえで、信頼のできそうな病院の名前と場所程度は把握しておいたほうがいいでしょう。
 マラリア検査程度なら、小・中規模の診療所でも、未使用の検査器具を使い、結果もほぼ正確といっていいと思われます(断言はできませんことを、あしからずご了承ください)。



HIV(ヒト免疫不全ウイルス)に感染した男性 2004年
写真は本人及びご家族の承諾のもとに掲載しています。@e-kankanderi

 1976年生まれ
 2001年頃に発症。
 高熱、肺の収縮感、頻度の咳(のちに結核に感染)、皮膚に血の塊のような小さな水泡、体全体に水がたまる、体と関節の痛み、腹や頭の痛みという症状を呈する。
 2004年7月に死去。


脳性まひの男児(右)2003年
写真は本人及びご家族の承諾のもとに掲載しています。@e-kankanderi

 研究者PeilらがKariukiの1983年の論文を引用しながら指摘するのは、世界中に数億人いる障がいを持った方々の3分の2は途上国に暮らしており、その多くが子供たちで療育・教育を受けられないことである。
 東アフリカにおいても、障がいを持つ方々に対する治療・環境整備・就労等に関する議論の根底は、現代医学が進み、比較的福祉の整った地域と、基本的に何ら変わりがないであろうと思われる。

参考文献
Peil,Margaret, and Oyeneye, Olatunji, 1998, Consensus, Conflict and Change : A Sociological Introduction to African Societies, Nairobi, Kampala and Dar es Salaam, East African Educational Pub.


 大立目信六の1970年代の論文等を参考にすると、現在までの間にHIVやエボラ出血熱などへのクローズアップが加わったものの、大勢においてはアフリカでは、日本での流行が少ないか、あるいはほとんど見られない感染症等が顕在するということです。
 アフリカにおける医療や福祉は、社会的な問題と密接に関連していますが、アフリカ大陸に居住するアフリカ人と非アフリカ人(いわゆる「人種」間)においても、病気の傾向に関しては、双方同程度に発症するものとそうでないものの差が報告されています。

 エボラ出血熱や黄熱(イエローフィーバー)などの急性伝染病は恐れられてクローズアップされますが、このほかの慢性的な疾病、たとえばマラリアの常時の蔓延や、結核、高血圧、また感染・発症すると諸種の感染症や悪性腫瘍を引き起こすHIVなどへの対策が必要、急務だと言えます。
 これらの疾病への対策は治療やワクチン投与のほかに、上下水道など衛生、栄養、社会的慣習、紛争など、多岐にわたる問題が密接に関係していることは明らかです。

東アフリカにおける、注意しなければならない感染症例
感染症名 症 状 対応・対処
マラリア Malaria

病原体:寄生虫
感染経路:昆虫媒介(蚊)

●マラリアを媒介する蚊(ハマダラカ属)の見分け方は、止まる姿勢と羽のまだら模様である。ハマダラカは他の蚊と異なり、止まるときお尻を上げる。また、羽にはまだら模様がある。マラリアを媒介するのはハマダラカ属であるが、イエカやヤブカの仲間も黄熱やデング熱などの感染症を媒介するので、とにかく蚊には注意が必要である。
 病原体はマラリア原虫で、産卵のために吸血を行うメスのハマダラカを媒介動物とする。
 吸血の際に、ハマダラカの唾液が人体に注入され、その中の原虫が疾患を起こす。
 種類と発症するまでの期間(潜伏期)は以下の通りである。
●熱帯熱マラリア
(Tropical Malaria):12日前後
●四日熱マラリア
(Quartan Malaria):30日
●三日熱マラリア
(Tertian Malaria):14日程度
●卵形マラリア
(Ovale Malaria):14日程度

 流行地で生まれ育ち、マラリアに多少の免疫を得ている者は、発熱などの症状が軽度か、見られないこともあるが、流行地に住んでいない者は免疫がないので、ほとんどの場合、発熱が起きる。
 発熱には悪寒を伴い、その後、顔面紅潮、呼吸切迫、結膜充血、嘔吐、頭痛、筋肉痛などが起こる。発熱の4〜5時間後には、発汗と共に解熱するが、感染初期では発熱が持続する傾向がある。
 熱帯熱マラリアは他のマラリアと異なり、高熱が持続する傾向があり、症状も重く、治療が遅れると意識障害、肝不全などを起こし、死亡にいたる。
@ 蚊による刺咬を避ける。
A 薬物予防:予防的に抗マラリア薬を服用する。
B スタンバイ治療:マラリアが疑われるときに自らの判断で抗マラリア薬を服用する。

●@は必ず行うべきことであり、A、Bは状況を検討して、副作用を上回るメリットがあると判断される場合に行うことが望ましい。

●蚊による刺咬を防ぐ方法としては、防虫スプレー・蚊取り線香・肌を露出しない(厚手の服装を着用すると効果的である)・就寝時の蚊帳使用である。

感染を防ぐワクチンはなく、感染しても発病しないための内服薬があるが、薬剤に耐性のあるマラリア(耐性マラリア)の存在が問題となる。

●左記のような症状が出た場合、現地の病院、診療所などに行き、血液検査(指先から血液を採取)を受けたうえで、医師の指示に従い、服薬などの治療を行う。
 帰国してから症状が出る心配を軽減するためには、現地の薬局で副作用の少ない治療薬を購入しておく。
 黄熱病 Yellow Fever

病原体:ウイルス
感染経路:昆虫媒介(蚊)
 流行地域は中南米とアフリカで、節足動物媒介ウイルスB群に属するウイルスをもつネッタイシマカに吸血されることにより感染する。
 潜伏期は3日から6日で、頭痛、めまい、発熱をもって発病する。40℃前後までの体温の上昇と、筋肉痛、吐き気を伴い、3日目からは、黄疸、吐血、蛋白尿の症状が現れる。重症になると昏睡に陥り、5〜10%の率で死亡に至る。  
 ●予防
 検疫所などで行われる予防接種で、10年間有効である。
 0.5mlの黄熱ワクチンを1回皮下に接種する。
 ただし、生後9ヶ月未満の乳児と妊婦へのワクチン接種は、推奨されない。
コレラ Cholera

病原体:細菌
感染経路:経口感染(消化器)
 代表的な経口感染症のひとつで、コレラ菌のうち、コレラ毒素産生性の菌で汚染された水や食物を接種することによって感染する。
 経口摂取後、胃の酸性環境で死滅しなかった菌が、小腸下部に達し、定着・増殖し、感染局所で菌が生産したコレラ毒素が細胞内に進入して病態を引き起こす。

 かつてはクラシカルコレラ(古典型コレラ)と呼ばれた菌が幾度となく大流行を繰り返し、その病原性の強さによって何百万人もの人が犠牲になったが、現在ではエルトールコレラと呼ばれるコレラが、その強い感染力のために、クラシカルコレラにかわって瞬く間に世界中に広がった。しかし病原性が弱いことから、死亡率は低く抑えられている。

●症状
 1〜5日の潜伏期間の後、下痢や嘔吐などが起こる。クラシカルコレラでは米のとぎ汁状の水様便が特徴であったが、エルトールコレラでは、これを見ることは極めてまれである。軟便程度から水様便まで幅広い下痢が特徴で、嘔吐を伴うこともあるが、腹痛や発熱を伴うことはあまりない。    
●予防
 生水、氷、生の魚介類を避ける。ジュースの氷や氷の上に飾られてあるカットフルーツ、またプールの水を誤って飲んで感染した例も報告されている。
 良好な体調の維持も不可欠である。

●治療
 抗生物質などの投与を行う。
 下痢が激しければ、脱水症状を防ぐために点滴や水分で電解質を補う。  
狂犬病 Rabies 

病原体:ウイルス
感染経路:動物媒介
 狂犬病は、狂犬病ウイルスを保有するイヌ、ネコ、およびコウモリを含む野生生物に咬まれたり引っ掻かれたりしてできた傷口から侵入する。WHOによると全世界で毎年3万5千人から5万人が狂犬病によって死亡している。アジア・アフリカでは狂犬病のイヌからの感染が大部分である。

●症状
 感染から発症までの潜伏期間は、咬まれた部位などによってさまざまだが、一般的には1〜2ヶ月である。
 発熱、頭痛、倦怠感、筋肉痛、疲労感、食欲不振、嘔吐、咽頭痛、空咳等の感冒様症状で始まる。咬まれた部分の痛みや知覚異常、筋の攣縮を伴う。
 脳炎症状は運動過多、興奮、不安狂躁から始まり、錯乱、幻覚、攻撃性、狂水発作などの筋痙攣を起こし、最終的には昏睡状態から呼吸停止で死にいたる。狂犬病は一度発症すれば、致死率は100%である。
@ 野生動物には手を出さない。
A 暴露前接種 : 事前に狂犬病ワクチンを接種する。4週間間隔で2回、6ヵ月後に1回接種する。


●咬まれたときの対応と治療
 動物に咬まれたり引っかかれたりした場合、まず傷口を石鹸と清潔な水でよく洗い流し、医療機関を受診する。狂犬病ワクチンと抗狂犬病薬を投与する。いったん発症してしまうと特異的治療はない。
破傷風 Tetanus

病原体:細菌
感染経路:経皮感染 
 破傷風菌はどこにでもいる病原体で、日本においてもほぼ毎年死亡例が確認される。
 土壌の中どこにでも存在するので、小さな傷口でも油断しないことが大切。
 日本では3種混合ワクチンに含まれており、 定期予防接種を受けていれば20年間有効。追加接種では1回につき10年有効となっている。
A型肝炎 Hepatitis A virus

病原体:ウイルス
感染経路:経口感染
 中・長期に滞在する方には、予防接種が勧められる。
 ウイルスは糞便中に存在し、それが飲食物を通して口から侵入する。

●症状
 初期には軽い発熱、黄だん、肝腫脹。
 放置すると肝機能低下、倦怠感、うつ状態を引き起こし、治療・入院が長引く。
●予防
 手洗いと食物管理が重要。

  予防接種は3回で、日本では16歳未満では接種が受けられない。1回の接種で5年間有効。
B型肝炎 Hepatitis B virus

病原体:ウイルス
感染経路:ヒトからヒトへ
 持続感染(母‐子間)と、唾液や体液を通した一過性感染が主流。また輸血や針などからによる感染もある。
 成人の場合、感染経路は血液や性行為で、感染後免疫を得る。このような一過性は、多くの場合が慢性化せず、肝機能が正常に戻るが、中には悪化し死亡に至る場合もある。
●予防
 不用意な性行為や、血液接触は避ける。

 血液に触る可能性がある場合にはワクチン接種(3回)。 
結核 Tuberculosis

病原体:細菌
感染経路:経気道感染
 
   
  しばらく作成・更新、および修正が続きます。どうかお待ちください。   
     
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交通


Atlasi kwa Shule za Msingi Tanzania
p.50
Educational Books Publishers LTD
第3版2005年



2011年ダル・エス・サラーム
日本から輸入の中古バスとコンダクターと呼ばれる乗合バスの車掌
@e-kankanderi


2012年ダル・エス・サラーム
道路工事の風景
Ubungo-Magomeni間
 一般的に交通システムは、居住する人口、生産される商品経済、そして交通技術の進展による移動の増加などによって左右されます。私的・公的、動力・非動力というような多様な交通システムが存在しますが、場所と時代によって、そのバランス、あるいは内容は変化します。

 東アフリカにおいては、基本である徒歩のほか、自転車、自動車(自家用車)などの私的交通のほか、公的な鉄道、バス(長距離、路線)やタクシー、船舶、飛行機などが交通手段として用いられています。中でも特筆すべきは、現在では日本においてはあまり見られない、パラトランジット(インフォーマル公共交通)とも呼ばれる交通手段です。パラトランジットとは一般に、零細・小規模な事業者に所有され、賃貸しされるかオーナー・ドライバーとして営業されます。

 もともと東アフリカにおいては、バスも三輪オートもパラトランジットとして登場してきました。また2010年を過ぎるあたりから、タンザニアなどで再び盛んになってきた乗合オートバイなども、インフォーマルな交通手段と言えます。このような中間型の車両を使ったパラトランジット交通の型にはまらないサーヴィスは、都市交通の重要な要素を含んできたと考えられます。
 これらの交通の登場は、公共交通の不足に由来しており、乏しいメンテナンスや危険な運転、高い事故率、交雑の元凶などの地位から次第に運行を安定させ、結果、合法化されていきます。

※東アフリカの陸上交通 →東アフリカの陸上交通:タンザニア大陸部を事例に(補足ページ) 


2011年ダル・エス・サラームMagomeni 日本から輸入の中古バス @e-kankanderi


2012年ダル・エス・サラームMakumbusho 乗合三輪オート @e-kankanderi

 
2012年乗合オートバイ 漁師船 ともにKigamboni  @e-kankanderi


2012年 Dar-Kigamboni間渡し船 @e-kankanderi
しばらく作成・更新が続きます。どうかお待ちください。

     
学術書で出版年も1995年と古く、現在では状況が変わってきていますが、経緯を知るためにはお勧めです!


観光・都市  

とりあえず
映像コ〜ナ〜


カリアコー市場の1分間映像



写真がない(あまり行かない)ので、ポストカードからとってしまいました(笑)。


こちらもポストカードより、ザンジバル島の市街地。
日本から「からゆきさん」が着き、生活をしていました。

 東アフリカはその大自然、数々の遺産で観光客を魅了しています。
 東アフリカの自然公園エリアは、それぞれに規定があります。ざっと以下のような取り決めになりますが、変更があるやもしれませんので、詳細は各公園の窓口で確認するか、現地のガイドさんに従ってください。ツアー等で行かれる場合はほとんど問題がありません。

 ○国立公園 : 入場、野営、宿泊が許可制になっている以外は、居住や狩猟などすべて禁じられている。
 ○コンサベーションエリア : 居住、入場、家畜、野営のみ許可制。
 ○ゲームリザーブ : 国定保護動物の捕獲以外、狩猟や植生変革に関して許可をもらえば可能。
 ○ゲームコントロールドエリア : 保護動物以外、狩猟や植生変革に関して可能。
※国立公園とゲームリザーブは所管が異なるだけで同格。両者は規制上の違いや、施設や社会的役割が異なる。


東アフリカ3国(ケニア・ウガンダ・タンザニア)の自然公園の例
Atlasi kwa Shule za Msingi Tanzania p.52
Educational Books Publishers LTD 第3版2005年
橙色:国立公園 National Park  Hifadhi ya Taifa
緑色:動物保護区 Game Reserve  Mbuga za Wanyama
紫色:自然保護区 Conservation Area  Eneo Lililohifadhiwa


●世界遺産の数々
 ここでは比較的よく知られている世界遺産をピックアップしたいと思います。

キリマンジャロ国立公園 タンザニア キリマンジャロ州
 Kilimanjaro National Park 自然遺産 1987年登録
 総面積753平方キロメートル 標高5895m
 最寄りの交通拠点、都市は、キリマンジャロ国際空港、モシ、アルーシャ
 キリマンジャロ山への登山はガイドの同行なしでは許可されません。登山ツアーが一般的です。

セレンゲティ国立公園 タンザニア マラ州・アルーシャ州・シニャンガ州
 Serengeti National Park 自然遺産 1981年登録
 総面積14763平方キロメートル
 北側はケニアのマサイ・マラ国立保護区、南東はンゴロンゴロ自然保護区に接しています。
 300万頭ほどの野生動物が棲息・移動します。ヌーの大移動が有名です。
 アルーシャからンゴロンゴロを経由して車で7〜8時間かかります。

ンゴロンゴロ自然保護区 タンザニア アルーシャ州
 Ngorongoro Conservation Area 自然遺産 1979年登録
 総面積8094平方キロメートル 1956年にセレンゲティ国立公園から分離
 アルーシャから車で4〜5時間程度 保護区内とンゴロンゴロ・クレーターへの入場料金は別
 アフリカ大地溝帯の活動によって形成された一帯の中に、標高2300m〜の外輪山に囲まれたンゴロンゴロ・クレーターがあり、内側に2万5千頭以上の野生動物が暮らしています。

ラリベラ 岩の聖堂群 エチオピア ウォロ州
 Rock-hewn Churches Lalibela
 エチオピア北部のラリベラに王の命令で12世紀から13世紀にかけて建造されたとされています。
 岩壁内や地下に5つの聖堂が建造されています。
 アジスアベバから飛行機(2時間半)かバスを使いますが、非常に遠方といえるでしょう。

ケニア山国立公園 ケニア レイキピア州・メアリー州・メル州
 Mt. Kenya National Park 自然遺産 1997年登録
 ケニアの首都ナイロビから北東へ150Km、キリマンジャロに次ぐアフリカ第2の山です。

 このほか、1632年から1784年までエチオピアの首都だったゴンダールの遺跡群(エチオピア・文化遺産)や、キルワ・キシワニの遺跡(タンザニア・文化遺産)などが世界遺産として登録されています。


●海岸の歴史的観光地を楽しむ
 東アフリカの海岸地方は、歴史的あるいはリゾート目的としての半島や島々が点在しています。

モンバサ(Mombasa):ケニア
 インド洋に面したケニアの海岸都市です。
 ペルシャのシラジからの移民など、過去からアラビア半島やアジアからの人々の往来があり、現在でもエキゾチックな都市の様相を見せています。
 広く開けたなおかつ穏やかな天然の港として、東アフリカの重要な海の玄関口のひとつでもあります。
 地中海やインド洋において覇者の勢いだったポルトガルが1505年にモンバサを破壊、占領したことに始まり、以降モンバサはアラブや欧州の攻防の土地ともなります。

しばらく作成・更新が続きます。地図や画像も少々お待ちください。

●お土産いろいろ
 都市なら色とりどりのお土産・工芸品を扱った店舗、あるいは「おみやげ村」があります。

 ナイロビやモンバサならビアシャラ・ストリート(商業通り)やシティ・マーケット、ダル・エス・サラームならスリップ・ウェイ、マコンデ村、ティンガティンガ村など、目的に応じてお土産を買う場所もさまざまです。町中心部から少し離れている場合が多いので、乗合バスやタクシーなどを使って行くことになります。

 値段は例えば布のような現地の人々が使うものは、現地の人々が購入する場所の値段を基準とすると、おみやげ村では割高に、また空港では1.5倍〜2倍くらいを考えておいたほうがいいかもしれません。
布類:カリアコーや地方の市場、個人商店など、どこででも購入できます。カンガやキテンゲ、バティック(ろうけつ染め)、キコイなどの種類があります。どれも非常に色落ちします。  

バティック

マサイ民族が好む布

キテンゲの子供服
 
モスクのそばでイスラム帽購入
 スーパーマーケットでは紅茶、コーヒー類が一般標準価格で購入できます。清潔です。
 大型ショッピングセンター、ショッピングモールには、お土産専門の店舗が併設されていることもあります。
民芸品・工芸品 :おみやげも常に「進化」しており、様々な珍しいもの、鮮やかなものを購入することができます。

ソープストーン:小皿や動物など様々な形があります。割れ易い。

動物の角などを用いた工芸品:水牛の角の調味料入れ。
 
ひょうたん細工
 
アフリカしゃもじ
 
マコンデ系工芸品:右はコーラ瓶を模したもの。
 
動物の角などを用いた工芸品:水牛の角の鳥の置物。
 
銅板細工
 
楽器類
 
アクセサリー:素材は粘土から天然石までさまざまです。
 
アルミにティンガティンガの盆

アルミやブリキの工芸品:サファリカーを模したもの。 
 
壁掛け:布(ろうけつ染め)

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宗教・呪術

薬草売りの男の子たち
2007年頃カリアコー
@e-kankanderi


伝統医療の薬壺 2004年
@e-kankanderi
 ↑
「あげようか」と言われましたがお断りしました。日本では「宝の持ち腐れ」のような気も…(笑)。博物館への寄贈等ならいいかもしれないと思い直しましたが(う〜ん、それも迷惑かもしれません…)。

 アフリカ大陸ほぼ全土において宗教や信仰に関しては、「自分以外の力を信じることに関して肯定的」ととらえてよいでしょう。2010年を過ぎてもこの傾向は続いていると言えます。
 東アフリカにおける信仰・宗教を語る際のキーワードとしては、イスラム教やキリスト教などの「世界宗教」以外に、祖霊(先祖)、呪術(師)、邪術(師)、占いなどのほか、様々な儀礼といったことばがあげられます。

 現在の東アフリカで活発なものが、いわゆる「世界宗教」と呼ばれるイスラム教、キリスト教への帰依、信仰ですが、これらは地域によって、また時代によって信徒数を変化させています。歴史的にこれらの大きな宗教勢力に影響を受けたものとして、民族間での儀礼を含む信仰があげられますが、これらも各地に点在し、姿を変えながら生き延びている場合もあります。

イスラム教 
 イスラム世界とは、ムスリム(イスラム教徒)がその人口の大半を占める地域を指しますが、その世界はサハラ砂漠を越えたサーヘルや、東アフリカのザンジバル(島)なども包含します。東アフリカのイスラム世界は、アラブ世界の二分法でマグリブ(西アラブ地域)に対するマシュリク(東アラブ地域)に含まれます(堀内2002 p.119)。
 マシュリクである東アフリカ北東岸にはエジプト、スーダン、エリトリア、ジプチ、ソマリアが含まれますが、ナイル川が通るエジプトやスーダンには、古代ファラオ時代から栄え、イスラム教が入る以前に成立していたキリスト教のコプト派の教会及び信者が、多く点在しています(堀内2002 p.123)。
 またたとえば、南部にキリスト教徒や土着の信仰を守る人々が多数いるスーダンのように、宗教、民族に国際関係が絡み、激しい対立を起こしているといった国もあります。

 イスラム世界の拡大は、軍事遠征や商業活動によるところが大きいと言えますが、イスラム教のアフリカ大陸への接触は、早い時期として7世紀前半に、北アフリカにおいて起こっていたとされます。Kalimullahという研究者は、イスラムの本格的な北アフリカとの接触を、632年のムハンマドの死後の638年としています(Kalimullah 1983 p.219)。
 北アフリカではこのように、7世紀ののちの数世紀の間にイスラムの受容が起こっていますが、サハラ以東へはヌビアのキリスト教国の崩壊まで、北からイスラム勢力が入りませんでした。

 しかし7世紀から8世紀にかけて、アラビアとペルシャからイスラム教徒の交易商人が、モンスーンを利用した海上交通を使い東アフリカ海岸地方に進出し、貿易を活発化させます(Safari 1983 p.73; Kalimullah 1983 p.220)。彼らはアラビア半島南部とペルシャ湾岸地方から来たムスリムたちで、9世紀から10世紀にかけて、東アフリカへ移住したこれらのイスラム教徒は、その地で彼らの伝統から離れた文化を形成していきます(Harries 1964 pp.224-225 ; Tanner 1964 p.127)。

 1592年、ペルシャのシラジからの移民の子孫が、モンバサから80Kmほど北にあるマリンディを攻略します。続いてポルトガル進出後の18世紀から19世紀にかけて、Hadrami氏族のアラブとOmani氏族のアラブが東アフリカに移住します。Omani(オマーン)アラブは海岸地方に急進的に彼らの政治・経済構造を持ち込んだのに対し、Hadramiアラブはアフリカの民と混血し、のちにスワヒリ文化に影響を与え、また彼らはスンニー派だったため、東アフリカの多くのイスラム教徒がスンニー派であると、研究者Harriesは述べています。

参考文献
Kalimullah,M.,1983 "Islam in Africa" Islamic Culture Vol.LVII No.1 PP.219-237, India, The Islamic Culture Board.
Harries, Lyndon, 1964, "The Arabs and Swahili Culture", Africa Vol.XXXIV No.3 pp.224-230, London, International African Institute.
Tanner, R.E.S., 1964, "Cousin Marriage in the Afro-Arab Community of Mombasa, Kenya", Africa Vol.XXXIV No.2 pp.127-138, London, International African Institute.
Gray, John, 1957, The British in Mombasa 1824-1826, London, Macmillan & Co.LTD.
Grandmaison, Colette Le Cour, 1989, "Rich Cousins, Poor Cousins : Hidden Stratification among the Omani Arabs in Eastern Africa", Africa Vol.59 No.2 pp.176-183, London, International African Institute.

「歴史」欄と合わせてしばらく作成・更新が続きます。どうかお待ちください。

 イスラム帽をかぶって仕事する男性 @e-kankanderi
 


キリスト教 
 東アフリカのキリスト教を知ることも、人々の生きざまや生活上の問題を教えてくれる重要な手がかりです。

 1967年時点において、アフリカに5000もの「独立教会」が存在すると明らかにした1968年のバレット(Barrett1968)の労作は、その後のアフリカの独立教会が当初とは形を変え、概念が当てはまらくなったにもかかわらず、アフリカの信仰に関して大変に示唆の富んだものといえます。
 アフリカ全土には植民地化以前より主に欧米からの宣教団が、「宣教」のみならず、「医療」や「教育」を目的として入ります。その後アフリカの住民たちは、宗教的関心・信仰だけでなく、宣教団が与えた医療や教育のほかに、雇用や物質的欲求を通して、キリスト教に入信・転向・改宗していきますが、既存のローマ・カトリックや、アングリカンやルーテルといったプロテスタントのほか、母体教会を換骨奪胎したり改革、革新して、アフリカ大陸内に様々なキリスト教が生まれては衰退しつつ、広がっていったと言えます。

 7世紀以来、すでにイスラム教が入っていた東アフリカの海岸地方に、16世紀から17世紀にかけてポルトガルが勢力を伸ばしてきました。ポルトガルは1698年のフォート・ジーザスの陥落によって東アフリカ海岸地方の支配から撤退しますが、19世紀後半まで続くスルタンの海岸地方支配ののち、ドイツ・イギリスが東アフリカを支配すると、欧米のキリスト教宣教団がこぞってこの地に進出し始めます。
→タンザニアを例に、キリスト教移入の歴史を読む(補足ページ)作成進行中です。

 現代においては欧米では「世俗化の波」が押し寄せ、キリスト教の熱心な信者が減少しているのに対し、アフリカでは信仰・入信する数が増加しています(〜2013)。しかし当初ヨーロッパからアフリカへ渡った宣教団の姿勢は、自身も長年アフリカでアングリカン教会の宣教を行ったヘイスティングズが、のちに述べている以下のようなものだったと推測できます。
「多くの宣教師たちは、自分たちがキリスト教化しようとしてやってきた社会について極度に無知であった。その上彼らは西欧の圧倒的な優位性と社会・文化のしきたりすべてを鞏固なまでに信じてやってきた。しかし宣教師たちの中には数こそ少ないが、語学の達人になった者もいたし、アフリカの慣習を深く理解することのできる学徒になった者もいた」(「アフリカのキリスト教」ヘイスティングズ 1988年[日本語訳年:原本1976年]68ページ 斎藤忠利訳)

 また、過去の文献の記述にはさまざまな差異はあるものの、人類学者と宣教団は一般的に親密な関係を持っていました。宣教をするにしても人類学的な知識・方法は不可欠であったし、逆に、多くの人類学研究者は、アフリカにおける宣教団の環境があってはじめて、フィールドに入れるのでした。

 しかし、アフリカ諸国の植民地時代が終わりを告げる1960年代前後から、「植民をしていた側」じしんによる、「植民をしていた側に対する突っ込んだ研究」がなされ始めるようになります。そこでは「植民地統治機関と宣教団」、「宣教団が提供した教育・技術・医療」、「奴隷制度からの解放」、「アフリカにおける新しいエリート階級とナショナリズムの構築」、「コーヒービジネスなどを含むプランテーション」といったさまざまな観点から、キリスト教宣教団に対する負の面と意義とが、客観的に議論・研究されるようになりました。

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 楽器を鳴らして歌う修道女たち @e-kankanderi  ろうそくを作る修道女たち @e-kankanderi    


東アフリカにおけるその他の信仰 
 東アフリカを含むサハラ以南のアフリカに入った西欧の宣教団が、宣教の初期において非難した対象は、「祖霊信仰(とそれらにまつわる儀式)」、「アニミズム(同左)」、「伝統の医師および医業」でした。その後の人類学的研究によって、伝統の信仰と儀礼の「宇宙観」が明らかになるにつれ、それらを「原始的」とする傾向は減ったかのように見えましたが、世界規模の宗教を宣教、信仰する者にとってはやはり、祖霊信仰やアニミズムは「悪魔の所業」としてのレッテルを貼る対象でした。

 アフリカに植民地政府、宣教団、研究者が入って以来、西欧の用語でいうウイッチクラフト(魔術・妖術)あるいはウイッチドクター(呪医)は、研究の対象として大きな範囲を占めてきました。それは実際、西欧のバイアスの中で、またそのバイアスから自由になろうとする努力の中で行われたと言えます。

 過去に自分たちの生まれ育った場所で「悪魔」や「魔女」といったものとの対峙を経てきたヨーロッパの宣教師や人類学者は、アフリカの魔術宗教を「子供だまし」で「知能の低い」、「非論理的な」ものとしてみる傾向がありました。また、ヨーロッパ・スタンダードの法や人権の問題において俎上に載せられる可能性のあるような「魔術」も散見され、非難と排除の口実を与えることにもなりました。
 そのような傾向に対し、人類学者エヴァンス・プリチャードは、「われわれがどのようにアフリカ社会のウイッチを遇さなければいけないかと考えること自体、アフリカの社会制度への我々の態度の、全く困った事態のひとコマなのである(Evans‐Pritchard, 1935, pp.421-422)」と述べています。


キリスト教に入信した伝統医師ダウディ2004年 2006年死去 左はカトリック教会司祭


●伝統医と呪術医 ー2003年前後のフィールドより

 記事記入者が聞き取った限りにおいて、例えばタンザニアのダル・エス・サラームでは、薬草や占いを使って治療をする者をムガンガ(Mganga、複数ワガンガWaganga)、占いをかけて相手を病気にしたり死に至らしめたりする者をムチャウィ(Mchawi、複数ワチャウィWachawi)と呼んで区別する場合があります。
 これは西洋における白魔術と黒魔術に近いものだといえるかもしれません。
 イスラム教徒間ではムガンガは、治療および厄や悪魔を払う役割を担うものとして位置づけられる傾向があります。

 いっぽうダル・エス・サラームのキリスト教徒は一般的に、ムガンガをウイッチドクター(Witch doctor)の意味合いを持つものとしてとらえ、ムガンガのもとには出向いてはならないという意識を抱いている場合が多いと言えます(※西洋医学の医師をムガンガと呼ぶ場合も多くあります)。
 また、ムガンガは結局のところムチャウィ自身であるか、あるいはムチャウィと結託しており、彼らの間で話し合いがもたれ、誰を呪い、病気にし、それを治したり死に至らしめたりするか、両者間において「裏で取り引きが行われている」と考えられている場合もありました。

 しかしキリスト教徒がムガンガの行為、あるいはその有効性から完全に切り離されているのかというと、そうであるとも言えません。タンザニアのダル・エス・サラーム、バガモヨ、ケニアのモンバサという東アフリカ海岸地方において、7名のワガンガ(伝統医師)を訪ねたところ、6名がイスラム教徒でしたが、残り1名は、ローマンカトリック教会で洗礼を受けたキリスト教徒でした。

 上の写真の元伝統医師ダウディは、ムガンガ(伝統医)とムチャウィ(呪術医)は目的と技術を全く異にしていると主張します。また、ワガンガ(ムガンガの複数)の中でも大ムガンガと小ムガンガがおり、その持つ力には差異があると言います。

 ムガンガ(伝統医)はムチャウィ(呪術医)より「地位が高く」、ムチャウィの呪いを解くことができるのは自分のような大ムガンガであり、小ムガンガは大ムガンガのように、シェタニ(Shetani 一般的に「悪魔」・「サタン」)を降臨させ、会話することはできないし、効果が大きい薬も調合することができない、というのは元伝統医師ダウディの弁です。

→元伝統医師ダウディ氏の過去の行い 作成中です。少々お待ちください。

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文学・音楽・芸術





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衣・食・住

ココヤシ
熟した果肉はすりおろし、若い時の果水は飲料、乾燥した胚乳からヤシ油が作られる。


ジャックフルーツ(パラミツ)
生食のほか、種も調理して食べられる。


バンレイシ(釈迦頭)
お釈迦様の頭を逆さにしたような形状をしている。
糖分に富み生食。種は黒く大きい。


トゲバンレイシ
甘みと酸味があり、養分に富むので保健食品として優れている。
大きな実では、子供の頭ほどになる。
日本にはアジアからジュースなどの加工品で輸入されている。


漁師たちの船(海岸)



 東アフリカの衣服も、国内外の物流に密接に関係しています。
 都市や地方ともに近年では、特に国外からの輸入衣料品を着用することが一般的です。中国、インド、インドネシアなどのアジアからの新品衣料品のほか、古着なども大量に出回っています。
「民族衣装」という定義の範疇に入る「カンガ」と呼ばれる布も、東アフリカで生産しているものと、インドや中国からの輸入品があり、公での着用の機会は減っているとはいえ、生活の様々な場面で用いられています。
 また、ムスリムの白の長衣やムスリマの黒の長衣およびベール類着用も一般的です。
  
左より カンガをはおった女学生たち   イスラム教の女性     マサイの女性たち @e-kankanderi

 近年までは、女性のパンツ(ズボン)姿も一般的ではありませんでしたが、情報や古着の流通などに伴い、腰から下を強調する女性のズボン姿も一般的になってきました。ミニスカートのような腿の露出する衣服は宗教・慣習的制約があり、一般的ではありません。


 東アフリカを含めたアフリカ大陸の食糧/食料生産に関しては、さまざまな角度からの研究が行われています。食糧に関しては、土地保有制度、政治、物流、自然環境、農耕技術、人口問題など、あらゆる分野との関係が密接です。
 ひと昔前は特にサハラ以南のアフリカなどの飢饉・飢餓が注目されたこともありますが、これも気候の変動、紛争などによる分配の不平等といった様々な要因があげられます。
 東アフリカの農業は、プランテーション以外は大規模であることは少なく一般的に小農で、土地生産性も高くありませんが、それが方策としてよいか悪いかになると、市場経済や資本主義などマクロな問題との関係、共同体や生存権の問題などと密接に絡み、どのような目的で議論するかによって、結論が全く違うものとなります。

 食生活は民族の風土などに由来した生活スタイル、歴史に直結しています。歴史的に牧畜に基盤を置いている民族や、漁労に携わる人々も若干ながらいます。
 食の流通としては、牛、ヤギ、ヒツジ、豚、にわとり、ウサギなどの家畜、海のさまざまな魚介、また湖で撮れるナイルパーチなどの白身魚や小魚、河川のウナギなどタンパク質等を摂取できるもの、また多種類の野菜、果物、加工品が、比較的容易に手に入ります。

 東アフリカの多くの人々の一般的な食事は、でんぷん質の食材あるいはトウモロコシ粉を固めにこねた「主食」と、それを浸して食べるスープ状の煮込みや豆という献立から成っています。それ以外にはエチオピアのおもたる料理である、インジェラと呼ばれる薄焼きの酸っぱい発酵パンを主とした、煮込み副菜付きの料理があげられます。
 東アフリカでは、現在ではトウモロコシ粉をおもとするこの主食を、「ウガリ」あるいは「スィマ」、コンゴなどでは「トー」などと呼びます。このウガリ類についてくるものとして、豆の塩煮込みや、トマトベースのスープ、青菜類の油いため、魚、鶏などの揚げ物があげられます。

 ※粉にする前のとうもろこしの天日干し。スイートコーンとは別の種類で糖分が少ないもの。@e-kankanderi

 そのほか、朝は紅茶(ストレートティーかミルクティー、マサラティーなど)にたっぷりの砂糖、余裕があればチャパティに肉ベースのスープ、食パンにマーガリンやジャムを食する家庭などもあります。ドーナツ様の、砂糖をつけない揚げパンや、サモサ、カバブといった軽食を食べる場合もあります。雑穀か小麦粉をお湯でとき、砂糖を入れたウジ(スワヒリ語)と呼ばれる粥状の朝食も一般的です。

 昼には上記のウガリにかえて、米やチャパティを主食にする場合や、チップス(チプスィ)と呼ぶ、フライドポテトの山盛りや、それに卵をかけてとじたものなどもよく食されます。現地の人たちは一般的にソーセージなども好きですが、チーズは好みが分かれるようです。
  @e-kankanderi
 ※スーパーマーケットで手に入るサンドイッチやヨーグルト。手前左は揚げバナナ。また、地方の市場やバスステーション付近などでは、玉ねぎやトマトがバケツ売りされている光景をよく見かけることができる。左2012年 右2007年

 夜には人々はバーなどで、ヤギや牛の焼き肉、串、あるいはムスリムなどの戒律を守っている人以外は焼き豚肉を、ビールなどの酒類とともに楽しみます。街中にはピザやスパゲティ類を提供する店、中華・インド・和食店などもあります。パスタ類は店を選ばないと、思ったような味やゆで方とはほど遠いものが出てくる場合もあります。魚は個人が生まれ育った地域によって、淡水魚か海水魚かの、食の好みもわかれる傾向もあります。
 また、バナナ食も一般的で、肉とともにスープ状にする場合や、揚げたり焼いたりする調理法が広くみられます。




 田舎の教会施設での食事。1998年頃。
 手前はニュンブと呼ばれたその地方の根菜。ゆでずに皮をむいて生で食べていた。シャキシャキとした食感。
 左側には西洋風のサラダの皿。トマトやカリフラワーが添えられている。
 一番奥はグリーンピースとニンジン。
 ほとんど自給自足で、牛、豚、鶏、ヤギ、ウサギなど多くの家畜を飼育している。
 市販用に茶などの生産もする。

@e-kankanderi
 

 香辛料で煮込んだ米料理ピラウ(ピラフ)は、比較的当たりはずれがなくおいしいと感じる日本人が多いようです。
 すべての料理に関して、味付けは一般的に塩がベースで、それにココナッツミルクや、クローブ、こしょう、とうがらしなどの香辛料が付け加わる程度で、日本食のように砂糖は多用しません。

 カリアコーなどの現地市場では青菜類、根菜(ジャガイモやサツマイモ)、豆類のほか、ニンジン、トマト(主に調理用)、玉ねぎ、なす、ピーマン、しょうがなどが容易に手に入るほか、大型スーパーマーケットでは長ネギ、カリフラワー、ビートなどさまざまな野菜が見られます。いちご、その他のベリー類なども売っている場合があります。


Atlasi kwa Shule za Msingi Tanzania p.45 Educational Books Publishers LTD 第3版2005年
 上記の図ではおおざっぱながら東アフリカ3国における農耕・漁労・牧畜の主な生産地があげられています。緑はトウモロコシ、藤色はもろこし、オレンジはキャッサバ、ピンクは雑穀類、そのほか米、バナナ、落花生が記されています。
 家畜では牛、ヤギとヒツジ、ラクダと、海や湖の魚介が記されています。
 また輸出用作物としては、小麦、綿花、茶、コーヒー、さとうきび、除虫菊、サイザル、たばこ、クローブ、ヤシ、カシューナッツなどがあげられます。

 東アフリカを含めたアフリカの第一次産業に関する書籍は数多くありますが、アジア経済研究所の書籍などが非常に有用です。

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